こんばんは♪
前回記事◆「遊びだよ?と言われる1」からの続きです。
今宵の月。
前回は前置きで話が終わってしまった感じでしたが……
ヘルパー存在であるAとの詳細は、
一緒に書くとそれだけで長い話になってしまうので今回は抜きにして…
また別の機会を設けてAにまつわることを書きたいと思います。
さて…
今回、私の認識としては「視覚の訓練」の一環として、
彼ら、物質的でないヘルパー存在に、自分の日常の中で、
より意識を向けるということをしていました。
もしかすると☆スピリチュアルカウンセリング☆の仕事にも、
この訓練はダイレクトに関わっている?と思い、襟を正す気持ちでいました。
自分だけの楽しみのために…ということならきっと適当に流してしまって、
いつのまにかやらなくなりそうなことでも、真剣に取り組んでみたのです。
寝る前も、意識の中で彼らと私が落ち合うスペースを訪問して、
現れたメンバーと交流するようにしました。
これも、今まで私は本当にたまーに、気まぐれでしかしなかったことです。
すると、その副作用があらわれました(笑)
意図的にこうして自分の関心を向けたことで、
“日常の視覚はこうである”と私が定めている以上の感覚が発動されて、
たとえば植物や鉱物も、擬人化あるいはキャラクター化というか…
そういう別な存在のイメージでみえるようになったのです。※
※注:これは肉体の視力でそう見えるわけではありません。
よく、スピリチュアルな分野で能力の「オン・オフ」という話を聞きますが、
私の場合、セッション時以外に自ら意識して「オン」にするということはしませんでした。
なぜなら、そうしなくても受動的に入ってくるものは入ってきてしまう、
気づく情報には気づいてしまう、という性質のものだからこそ、
あえて、自分から意識を向ける必要もないと感じていたからです。
「別な視覚」というのはセッションのように“役立つ”ときにこそ使うもので、
この物質世界で平均的に受け入れられている「見方」からはみ出ることは、
むしろ危険だとすら思っていたかもしれません。
あるがままに見る、ということは、あたかも、
「物質世界で信じられている定義に合わせる」ということだと、
いつのまにか信じてしまっていました。
花は花だ、石は石だ、というように。
それ以外の見方は存在しないか、間違っているのだというように。
このことに気づいて、驚きました。
たとえば、山や川や風や樹木のような自然の生命も、
物理世界で定義した通りに、見なければならない。
それ以外は幻想なのである。
これが、私の採用していた「視覚」でした。
※自分の肉眼で見えてしまうエネルギー等は除いて。
「視覚」の常識的なルールと一体化していて、
そうなっていること自体を疑ってみる余地も自分に与えませんでした。
そして日常の中で、そのルールを解いて「見る」ことは、
それでは世界がファンタスティックになりすぎて、
頭の中がディズニーランドみたいになってしまうのでは……
と、危惧してセーブしていたのです。
そのくせ、それをさみしく、つまらなく思ってもいたのでした。
今思えば、私がそんな観念を持っていたからこそなのですが、
そのような別な見方をまさに「害」や「邪道」と見なす人々を人生に登場させ、
精神世界やそれに近い分野の中で否定される経験をしたこともありました。
また、こういった観念による恐れの影響を除いても、
もうひとつ言えることがあって…
これまでは、この世界を“普通の”知覚で経験するだけでも、
けっこう忙しかったんだろうなということです。
様々な取り組み甲斐のある物事に向きあったりして(!)
だからこそ、ルールにそった視覚に限定されていても、
特に強い不自由も感じなかったのだと思うのです。
ところがだんだん、この世界に「飽いている」自分に気づきました。
それは現実的な事柄の物足りなさなどではなく、
たとえば今の私が不幸だったり、重い悩みを抱えていたり、
気分が落ち込んでいるということでも全くなく……むしろ、平和。
ただ、この世界に「飽きているな~!」ということを感じていました。
2年くらい前からゆるやかにそう感じていた気がしますが、
昨年あたりからはもうはっきりしていて、「余生」のような感じがしたり、
言葉に表せないこの感覚を自分でも不思議に思っていました。
こちらの記事もそのテーマでしたね→◆「地球との蜜月期間が終わり…」
今回の出来事のおかげでやっと、
そうか!
「普通」の見方で世界を眺めなければならないという、
自分の決めたルールにずいぶん飽きていたんだな、
とわかったのです。
もちろん私は、スピリチュアルカウンセラーという職業にしても、
日常のものの考え方にしても、
どちらかというと「一般的ではない方」なのだとは思います。
それでも、先ほど「あるがままに見る」の思い込みについて書いたように、
特に視覚的に、「世界をこう捉えなければならない」という一般的ルールを、
日常においてはきっちり守り従っていたということです。
……こういう気づきに到達する前から、
すでに、ヘルパー存在Aからはこう言われていました。
「遊びだよ?」って。
私がこの“練習”について、
「これがどう仕事に生きるのかな…?
一見、仕事の中ではすでにやっていることと同じなのだけれど…。」
などと考えていたときに、投げかけられたセリフです(笑)
私は今記事にしている内容に気づく前だったので、そう言われても、
エッ…Σ(・ω・;)
と思いました(笑)
遊びなの!?
セッションの仕事に役立つから…ではないの?
A「役立つとしても結果としてそのようになるだけで、
それが目的ではないよ。」
私がこの訓練をするようになってから、Aはすっごくニコニコ笑っていて、
う・れ・し・そ・う
なのですが…。
さらに後になって、こうも言われました。
「今以上に、遊びの心を取り戻すためにやっているんだよ」って。
たしかに、「遊び」のために真剣に取り組む、
…ということはそんなになくて、
私に今まで同じチャンスがあっても流してしまっていたことは自覚しています。
ちなみに彼ら、非物質的なヘルパー存在との会話は、
私の場合一番手っとり早いのは「テレパシー」で、
私たちの日常会話のように文字や音声で言葉を一字一字、
「ぺらぺらとしゃべる…」というのとは違います。
言葉として受け取ることもありますが、長いと大体以下のような感じ。
情報のかたまりをやりとりしていて、それを言葉に翻訳するときは、
たとえるならデータファイルを解凍して展開するような手間がかかります。
先にその意味の方を受け取っている(中身はわかっている)ので、
自分の中ですら、ほぐして言葉に翻訳するのはもどかしいなぁ…
と、いつも思います。(´▽`)ゞ
とはいえ、より人間同士のように「交流した実感を得る」ためであれば、
言葉の会話に直した方が、そのリアリティを「味わえる」かもしれないです。
「みる」ことについてはまだお伝えしたい内容もありますが、
このエピソードは、これで終わりです!
おやすみなさい。
スピリチュアルカウンセリングその他メニュー