今回のテーマは「非言語コミュニケーション」です。
コミュニケーションのメイン手段は「言葉を使うこと」、
そんな風に感じている方もいるかもしれませんが、
実は私たちは、言語によらないコミュニケーションを日常で沢山交わしています。
それは表情やジェスチャーや雰囲気、空気感といったものもそうですし、
目に見えないエネルギーも含まれます。
また、たとえば動物や植物とコミュニケーションを取りたい場合、
あなたも言葉でないコミュニケーションに注目するのではないでしょうか。
もちろん、動物や植物にも言葉を使ってコミュニケーションしてもいいのですが、
そのとき彼らが受け取っているのは、人間語としての「言語」ではありません。
その背後にある、私たちの発するエネルギーや心の中身を受け取っています。
ですから、動物たちとお話ししたい!と願った場合、
人間に対するように言葉で話そうとか、彼らの“言葉”を聞こうとしすぎると、
肝心なことに気づけなくなってしまうことがあります。
私も今、非言語コミュニケーションに再び惹かれ、見直している最中なんです。
そして、非言語のコミュニケーションだから、
言葉で表現されているものよりもわかりにくいはずとか、
言葉の表現よりも不確かである(信頼が置けない)と思い込んでいる「観念」、
それが自分にあったことを再認識しました。
その観念によって、言語のコミュニケーションに比重を置いてしまい、
やはり言葉のレベルで表現しようとか、表現してほしいとか、
そのような形ではっきりとわかりたいとか、思っていたのでした。
でも、自分がそうしているときには、
心の中でただ「共にいる」ということができなくなることにも気づきました。
特に相手が動物のように、
人間の言葉を話さない存在であるならなおさらですね。
「何て言ってるの?何を伝えたいの?私はちゃんとわかることができてる?」
と、言語のコミュニケーションに水準をあわせて「聞こう・知ろう」とすると、
すでに表現されていることや、
自分のルールや解釈に基づく意味とは違うことや、
言葉で表現されないけれどもそこにあるもの、
それらを感じることができなくなるのです。
そしてまた、言葉で理解しようとすることは、
自分の使っている言語体系のルールに相手を当てはめて、
自分の持っている方程式によって相手を解釈することにもなってしまいます。
私はもう、あえてそこにチューニングを合わせたくはないなと思いました。
何かを経験したとき、それを言葉に置き換えようとしてしまうことがありませんか?
それは創造的な遊びではあるけれど、
いつもそれをしなければならないということはありません。
入ってくるものをただ楽しんでいいし、
言葉に濾すプロセスがなくとも、直にコミュニケートできるということ。
それが今私の、移りつつある関心事です。
実はテレパシーとはそういうものなのですが、
“日常”の中でそれに信頼を置けていたかというと…そうでもなかったのです。
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