今回の記事タイトルはですね、少し堅い感じで書くならば、
「自分の意思でやっていると自覚する」ということなんですけど、
遊び心で実感していただくために「わざとやってると思ってみる」にしました。
この内容のインスピレーションがやってきたのは、
新しいスキンケア&ヘアケアを実践したことからです。
ええ、もう何度も書いているあれです。
「何もつけない」スキンケアをスタートした当初、
「私は今までのスキンケアもシンプルだったから、移行が楽なのかも♪」
なんて記事に書いていた自分を、今では懐かしい目で見てしまう…くらい、
その後からが真打ちの登場でしたね。
ちなみにその頃は「何もしないスキンケア」と言いつつ、
お風呂上がりの乾燥した顔にほんの少しだけオイルをつけてみたり、
お湯を沸かした湯気を肌にあててみたりといった、
未練がましい行為を行っていたのに対して、今は、
「何もしてない」のレベルが違います。
言うならば、「第一級何もしてない」というグレードです。
☆前回の記事☆でふれた宇津木氏の方法を実践している方々が唯一、
どうしても乾燥がつらくて和らげたいときなどに、
うすーく塗ることならゆるされている「ワセリン」も、
私はどうもワセリンが好きになれないので使っていません。
すると、どうなっているか。
顔が粉ふくのは、まだいい。
元々乾燥肌ゆえ、慣れてる。
「粉ふきいも状」なんて愉快に表現して妹に報告できちゃう。
でも…
一番驚いたのは唇だ!
クロコダイル状のくちびる…
なに?私って化粧水やリップクリームの潤いに頼らなければ、
みるみるこんなになっちゃうくらいの状態なわけ!?
と、愕然としましたよね。
なんていうか、申し訳ないよね、自分の唇に。
ここまでにしてしまったこと。励ましながら「再生」を見守る気持ちです。
ただ、この状態でも、
リップクリームを使用しているのに荒れちゃう、というときのような、
ひび割れから血が出たり、痛かったりということは、ないんですよ。
自然な作用の範疇だからなのかな。だから、深刻に困ってはいない。
ただ、もう、めいっぱい、クロコダイル状になるという。
ガワガワした触覚の違和感と、見た目の問題だけだよね。
そして、こういう体験から、ハタと気づいたんです。
もし…何も知らずにこうなっていたら、同じ状況でもパニックになるのでは、と。
たとえば、日々いつもと同じケアをしていて、突然こんな風になったら。
私は、きっと、この状況にもっとうろたえると思うのです。
「どうしよう…なんでこんなになっちゃったんだろう!」って。
今は、自分の意思でやっていることだとわかっているから、
起きてくることに対して落ち着いていられる。
そこに、抵抗やストレスもない。
むしろ観察対象として面白かったり、興味があったりします。
そして、このことは「現実」のすべてに対してもそうなのだと気づいたのです。
つまり、私たちは、現れる出来事を自分の意思と切り離しているから、
まるで、事象が自分の意思とは関係なく起こってくるように感じているから、
受け身の、千々に乱れる心で反応したり、現象をコントロールしようとしたりする。
起きたことの「被害者」とか「犠牲者」として自分を捉えたり、
「無力感」にさいなまれたりもする。
自分の意思で、「自発的」にものごとを選んでいる、
自分自身の選択で人生が成り立っている、という自覚がなければ、
そういう気持ちにたやすく入り込んでしまいます。
現実の「源」は自分、ということを忘れているのですね。
例にあげた私の状況だって、自分でやってるんだっていう自覚も、
「やりたくてやっている」という自発的な気持ちも、もしも抜きで、
「状況・条件」だけがここにあって体験していたら…
その上、「勝手に起きてきたこと」とか、「誰かに強制されたこと」と考えていたら?
こんなコンディションや状況に悲観的になって、
「神よ!なぜ、私にこのような試練を与えたもうのですか。」
と、「過酷な状況に耐えながら治癒を模索する」かもしれないし、
シャンプー・コンディショナーも「取り上げられた」ことに不満を感じ、
「どうして私は皆のようにいい香りのシャンプーを使わせてもらえないの!?
ひどい、ひどいわ!!(被害者思考)」
とかに入ることだって、可能です(笑)
他の例をあげると、たとえば、健康や趣味や好奇心のために、
自ら好んで「断食」している人がそれを忘れて、
「どうして私は食べることを“禁じられて”いるのだろう…
この空腹は、一体何の罰なんだ?なぜ、私だけがこのようなひどい目に!?」
なんて、空腹状態を苦しみ「外」を責めていたら、おかしいですよね。
「わざとやってるんだ」という自覚があればこそ、
その状況を平穏な心のまま観察したり、楽しんだりすることができる。
「現象」自体は一緒でも、心のあり方でこうも違うのです。
出来事は中立だというのは、その通りなんです。
どんな状況・出来事も、
「私が好きでやってるよ~」
「わざとだよ~」
と思っていれば、
恐れから反応し、不安に基づく意味付けをするのじゃなくて、
あなたはそれを興味深く眺めながら…心は平和なまま…その事象に、
「自分の望む結果の一部としての、ちょうどよい意味付けを与える」
ことすらできるというわけですね。
☆☆☆
ちなみに予想はしていたことですが、
最近の私は、石鹸の使用にも疑問をおぼえ、できるだけ控え始めています。
2年くらい前にも、それを見直すチャンスはあったのですが…
(過去記事の◆『塩で浄化☆と引き算の健康』をご参照ください)
あのときは、治ったからと自然に元に戻ってしまって、対症療法にとどまり、
観念の入れ替えにまでは至りませんでした。
ところが今回、「洗い過ぎ」に気をつけて顔は水かぬるま湯のみ、
体への石鹸の使用も最小限にとどめているにも関わらず、
この夏~秋にかけて入れ替わりできるようになってしまった、
顔周りの髪の生え際の吹き出物だけが引き続きおさまらなかったのです。
外的な要因は、あとはシャンプーしかないなと気づき、
おかげでさらに見直すことができました。
私は、これまで毎日シャンプーしていた習慣を変えていくステップとして、
ゆくゆくスローペースのお湯だけ洗髪やハーブ粉の洗髪にするつもりで、
橋渡し的に市販のせっけんシャンプー&リンスを使い始めていたのですが、
それがどうも、今の自分とはマッチせず心地よくなかったのでした。
石鹸…地肌や髪に必要かな?
なんだか要らない気がする。
そう感じながらも「とりあえず」石鹸シャンプー&リンスをしていたのですが、
その残っている吹き出物のおかげで、ようやく、
お湯のみで洗う「湯シャン」にしてみたところ、
思った以上に気持ちがよい上に、やっぱり、顔や体への負担もない!!
あ、やっといい感じになったよ!
と、実感できたのです。
これは皮膚の感覚というだけでなく、エネルギー的にも感じることです。
このエネルギー的な感覚を具体的に考えてみると、
石鹸やシャンプー等で日々洗うことで、無自覚ながらも、
体の必要な機能や皮膚の常在菌を邪魔したり殺したりしてしまっていた。
習慣としての思い込みに従った“スッキリ感”はあったけれど、
エネルギー的には自分にとってのマイナス作用、負荷として感じられていた
…ということだと思います。
頭も湯シャンにしてみたときに感じた「トータル感」と比較すると、
今まで、この感覚に関しては鈍麻させていたのかもしれないと思いました。
☆前回の記事☆にも少し書きましたが、
頭皮や髪にはハーブやヘナを使ってみたくて、パッチテスト待ちでもあります。
もちろん完全にお湯だけのお手入れも可能ですが、
ハーブによるお手入れは遊びとして興味があります。どんなものかと。
すでに自分でヘナもしている妹は、
回数を重ねるごとに使い方を研究し、仕上がりに試行錯誤しながらも、
「ヘナを絶賛する人がいるのはわかる気がする…気持ちがいいし、
浄化している感じがすごい」
と、つぶやいていたので気になるところです(笑)
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