作成しようと思っていた記事が進まず、また気が向いたときに書くことにして、
今回は最近思っていること。
「今」を生きると執着が薄れるのか。
イルミネーション、始まりましたねぇ。
外出先で見たツリー。
最近とみに時間の「非」連続性を感じていて、止められない。
ここ数ヶ月、ときどきそのことを記事に書いていましたが。
今を生きるということは、
今、今、今、今、今…
今の連続であり、「過去」や「未来」はない。
一応、この世界に合わせた思考上では、
過去や未来という概念に合わせることはできるけど、
実感としては、もうかなり薄い。
すると、どうなるでしょうか。
前ほど物事に執着できないのです。
「集中」することはできるけれど、「執着」は難しい。
何がなんでも…!
とか、
絶対に…!
とかの発想が薄くなっている。
「どうでもいい」というとネガティブに響くかもしれないけれど、
「今」の連続で生きていると、「なるようになる」ことへのフォーカスが強まる。
瞬間瞬間を答えとして受け取って、それを過大評価も過小評価もしない感じ。
このあり方は、動物に近いのだろうと思います。
動物たちは、「今」を生きていますよね。
動物は、過去を思ってくよくよしたり、未来を思って悩んだりはしない。
でも、この状態を決して、
何かいいことの「お手本」のようにしてシェアしているのではなくて、
気づいたらこうなっているなぁ。
という、だたの感想と驚きの表明なのです。
◆「しがみついてもムダ」の記事で書いたように、
本当に日々が「日めくりカレンダー」のようで、
こんなにも1日1日というのは独立していたのかと思います。
今の私にとって、「昨日」への精神的距離と、
「1ヶ月前」への精神的距離、「1年前」への精神的距離、
みな「遠い」という意味で一様なのではないかと。
「今」現れるものにその都度、すべてが凝縮されているようで。
それ以上のものも、それ以下のものもなく。
そして未来は、イメージ上に存在するけれど、
具体的に描くというよりは、「何が出てくるか目をこらす」という感じ。
深いところでは「知っている」という感覚があるので、
今、贈り物の包み紙を引きちぎって開封したくはない、とたとえられるように、
あえて“ぼんやり”させている風味もある。
色々なことへの「どっちでもいい」感は、
瞬間瞬間には自分の意図や希望をしっかり持っているけれど、
それが思った通りに形にならなくても「どっちでもいい」ということです。
ボールを投げる。
でも、それがどう返ってくるかには一喜一憂しない。
それはただ、どんな風な表現をとっても必ず返ってくることを知っている、
とだけ言える。
見える「形」に関しては、それならそれでいいさ、という感覚で、
それが一見、思いに沿わなくても、
何かを「失った」というようにはもう感じないのです。
宇宙はどんな経路を通ってでも、本当は「私の思った通りの」こと、
そして中でも、最善の形を運んでくれているのだと、知っているから。
そこに「疑い」が差し挟めなくなったということでもあるでしょう。
これまで複雑だと信じていたことが、すごーくシンプルになってしまって、
それでも、「見かけ上の世界の機能」は変わらないので
それまであった「枠」が外れてしまった自分だけが、不思議なようにも思える。
でも、外は内にある。
どんなに“そっくり”に見えても、
それは全く違う、新しい世界の誕生なのかもしれない。
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