今回は、「Autonomy(自律性、自主性)だけが存在する」というお話です。
前々回の記事で、主体と客体という二極に分かれない見方について言及しました。
◆「主体と客体が溶け合う中で、あなたの愛が向かう先。と、Baby Eの曲紹介」
改めてそう書くことで、かえって混乱させてしまう可能性もあったかな、と後で思ったのですが、基本的にこのことは、以前からずっとお伝えしている内容と変わってはいません。
ただ、何度説明しようと、「この世界の中で、個人として生きていると思っている私たち」 には「自分と、自分でないもの」、「能動と受動」などがあることが「とてもリアル」ですので、繰り返しお伝えする意味がありますし、そこから脱した観点を持つことでしか、あらゆる問題は本当には解決しないと言えます。
また、そのことを合点している人であっても、その都度、さらに深い認識に到達し、現実により一層活きるというプロセスがありますので、ここではまた別な表現でふれていきます。
タイトルに入れた「Autonomy」は自律性や自主性と訳すことができ、この言葉が今回の内容のフィーリングにぴったりでしたので用いました。
自覚があるとき、私でないものはない
あなたが自分の体の一部、たとえば右手と左手を合わせると、互いを感じることができますが、両方が自分の手だとも感じています。
そのように、あなたの経験している世界に対しても、
どこにフォーカスを置こうと「全部自分」という自覚を持っているでしょうか。
この世界の「中」にいる、「個人の自分」にフォーカスしているとき、私たちはあたかも、自分の「部分」のみで生きているような錯覚に陥り、「外」に見えるものは自分そのものではない、と感じるのです。
あなたとAさんが存在していると、あなたとAさんは別々な体を持っているので、あなたはAさんと自分とを「別の人間」であると認識します。
あなたと、道で動物がすれ違うとき、あなたは「私と、動物」を違う2者として感じます。
自己認識(フォーカス)を「全体」にではなく、部分的に置くことが、この世界で慣れ親しんだ体験の仕方ですが、これは不変のものではありません。
自分を部分に分ければ、極性というものも体験できます。
あちらの自分と、こちらの自分。「どちらか」。
そして、そのどちらかを、「自分ではない」と見なすこともできます。
ところが、あなたが真に「自覚があるとき」、つまり、ただ一者である「私」そのものの認識があるとき、「自分でないもの」は存在し得ないのです。
これについての身近な例として、私は「夢」を挙げています。
あなたが見る夢は、あなたの意識の中で起こっている、ということが説明しやすいからです。
あなたの眠っている間に、自身の内側で夢を見ていると実感しながらも、その夢の世界では、様々な人物や場所、出来事をリアルに経験しますよね。
そこから、夢という「表現」を取っているけれども、夢の世界全体を「自分自身」と捉えられるという概念を理解することができると思います。
ただし、夢の中でも「現在の自己と継続している自覚」を保てているわけではなく、まるでこの世界で生きているときと同様に、「夢の中の自分は、それが自分の夢の世界だと気づいていないまま活動している」という経験があるのではないでしょうか。
一方で、「明晰夢」の状態では、「自分が夢を見ていること」を認識した上で、夢の中で自覚を保って動くことができます。
ひとつの「私」にあるのは、自律性のみ。受に見えるものの中にある自発性を自覚しよう
あなた自身の真の自己であるひとつの「私」という観点からは、(この世界の語句で説明するなら)自律性のみが存在します。
「私」と「私」でないもの、は存在しないため、すべて「私」の自主的な動きになるのです。
どれだけ私たちが根源から「分岐した多数の存在」に見えようとも、その根本的性質は変化することがありません。
一例として、他者からの影響のみならず、この次元では私たちは「何かがそうさせる」という「何か」を、自分に「働きかけるもの」として感じることができますが、それは結局、自分から起こしているモーションです。
ただし、「次元の違う自分」、「階層の異なる観点からの自分」のことを、「自分以外のもの」と認識している場合、それが他に由来した何かに思えるのです。
どんな状況も、行為も、すべて「受け身」の状態というのはあり得ません。
「受」に見えるものの中にある自発性を認めれば、あなたは、分離させた中の「部分」の自己としてではなく、ひとつの自分のままで生きることができます。
そして、それが本来の自然なあなたのあり方なのです。
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