BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

自由に、やれよっ!~協力するけど、主体性をなくしてほしいわけじゃない~

新緑の美しい季節です~。

この間、植物たちがどのように(言語でではなく)互いに話しているのか、ということを知る体験が夢でありました。

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その夢の続きには、たんぽぽの美しさを色々な角度から経験するシーンもありました。
たんぽぽの花や綿毛が、夢のヴィジョンの中でパッ、パッ、と七変化して、外観はたんぽぽのままなのですが、言葉で説明できない特別な見え方をするのです。

この夢を見る数日前、(起きている間の現実で、)道路のすみに咲いていたたんぽぽの綿毛に目を奪われ、その美しさに改めて新鮮に驚くという体験があったばかりでもありました。

季節のトークはさておき、今回の本題は、
「自由に、やれよっ!~協力するけど、主体性をなくしてほしいわけじゃない~」です。

前回に続き、私が「ガイドさんの絵とメッセージ」のメニューを始めてから、チャネリングを意識した創造について、解いた誤解や、学んだことを語ります。

「ガイドさんの絵とメッセージご案内」

beats-and-love.hatenablog.com

「ちゃんと!」の気持ちが制限になるとき 

前回、「ガイドさんの絵とメッセージ」のメニューを開始してしばらくの間、エネルギー的にどんなことを経験していたかを書きました。

該当記事「エネルギーバランスと夢の経験や体外離脱、明晰夢

beats-and-love.hatenablog.com

記事の中で、その期間の価格という要素に言及したほか、「ちゃんと」描こうと気を張って、ガイドさんの世界に普段より意図的に接続しすぎていたことにもふれましたよね。

この場合の「ちゃんと」とは、絵・イラストとしていかに上手に描くかということよりも、「各ガイドさんをチャネリングした内容を、正確に表現できているか」ということが優先的なポイントでした。

もちろん、相応の表現力は大切なのですが、このメニューのコンセプトから言って、お申込みされる方はご自身のガイドさんに興味をお持ちなのであって、上手な絵を探し求めてこちらにいらしているわけではないと理解していたからです。

チャネリングへの誤解

見えない存在の似顔絵を描く。
それは「チャネリング」と呼べる行為ですが、私が見えない存在に身をゆだねればスラスラ、サラサラ……と、絵や文を私の体を使って書いてもらえるわけではありません。だったらある部分では、楽そうなんですが(笑)

もちろん、当人の自覚が薄れる「トランス・チャネリング」の状態であれば、「自動書記」という表現もありますが、それは私のやり方ではないので、また別のお話。

私自身が認識し知覚している内容を、自分の判断や技量で絵や言葉にする必要があります。

チャネリングと言えば、2015年にチャネリングの講座を行ったとき、ご説明したことがあるのですが、
「日常に生かすチャネリング☆11/29(日)講座のご案内」

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そしてその講座内容は、チャネリングについての誤解がとけたり、チャネリングという現象を身近なものとして捉え直すことができたり、ということで、ご参加者の方々からの反響が大きかったと実感したのですが、

「スベテ、ヨク、ナッテイク~『日常に生かすチャネリング講座』ご感想~」

beats-and-love.hatenablog.com

「再度生きる、そして活きる~スピリチュアルカウンセリングと、日常に生かすチャネリング講座のご感想~」

beats-and-love.hatenablog.com

そもそも、芸術を始め、様々なクリエイティブな表現は、すべて何らかの形でチャネリングであるのです。

ただし、今回のメニューでこそ私は、自分で教えた講座の内容を、よく思い出すことが必要でした。

なぜなら、非物質的なガイドさんを描くこと、しかも他者のガイドさんを「ちゃんと」描こうと考えたことで、チャネルとしての自分の意志を控え、「対象に従う」ことの方ばかりを意識してしまったからです。

そのために、「私がこう描きたい」ということよりも、
「ガイドさんがどう描いてほしいか、それを受け取ること」にアンテナを張り、ひとつひとつ確認する気持ちになりながら、気を張っていたのです。
「これで合っているか。意図を間違えて描いていないか?」と、慎重になりながら。

一見、「受け取ることに徹している」正しいチャネリングの姿勢に見えるかもしれません。

でも、それを繰り返していると、あることに気づき、疑問に思ったのです。

かつて、自由に漫画やイラストを描いていたときには決してなかった疲れ方をしている!と。
とても創造的になって、夢中で、ぐんぐん絵を描いていた頃のことをふと思い出し、その自然にあふれる躍動感を懐かしく思いました。
あのとき、こういう特有の疲れ方をしただろうか?こんなに、絵を描くことに負荷を感じただろうか?

昔、本当に漫画やイラストを描くことが大好きだった頃、夢中になって描いていたときの感覚と比較して、はたと考えてしまったのです。

もちろん、そのときは誰か他者に差し上げる絵を描いていたわけではありませんが、絵を描くという行為自体は本質的に一緒なはずです。

インスピレーションを遊びで形にしているとき、寝食を忘れても楽しくてたまらなくて、元気だった……。
ただ描きたくて描くって、それくらいパワフルだよね?

ガイドさんの絵だって、完成すると何とも言えず嬉しいし、描かれたガイドさんの姿に癒されるものの、作業中のその負荷は、一体何が違うのだろうとよく考えました。

そうしたことで、チャネリングという姿勢を誤解し、自分を制限していたあることに気がつくことができたのです。

主体性は、創造性と対立しない

それは、どんなにチャネリングの要素を持つ行為であろうと、そこに自発的に自分が参加しているのだし、決して主体性を「抑えようと」しなくてもいいんだということでした。

必要なのは協力の姿勢であって、「従うこと」を意識する気持ちではない!この違い。 

私の味わった負荷の要因の一つは、このメニューを行うに当たって、それぞれのガイドさんにできる限り従わなければならないと自分自身が思い込んでいたことによる、不自由さを感じていたためだったのです。

もちろんそれは各ガイドさん側から提示されたものではなく、私がそう思い込んで、そういうエネルギーで受動的になって仕事をしていたのです。

このとき初めて、「ガイドさんの絵とメッセージ」のサンプル画に描いた私のヘルパー存在のひとり、風太郎(かぜたろう)のメッセージの意味がわかりました。

私のヘルパー存在(ガイド)の紹介はこちら。
「ヘルパー存在紹介【覚書用】」

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サンプルの絵で、風太郎が発していたメッセージ

メニューのご案内記事を出した一番はじめのとき、ガイドさんの絵にメッセージを付ける予定はなかったので、サンプルの風太郎の絵にもメッセージは載せていません。

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でも、実際にお申込みを受けるとすぐ、解説しすぎない簡潔なメッセージを一緒にお送りすることに決めて、そのようにメニュー内容を変えたので、では、この絵の風太郎のメッセージは何かなと、その頃意識を向けてみたのです。すると、

「自由に、やれよっ!」

と言っているのがわかりました。

ところが、私がガイドさんの絵のメニューを実行しながら感じたことは、
「自由にはできないじゃん!(ガイドさんに従うことを重視するメニューだよね?)」という気持ちだったのです。

サンプルの風太郎の絵のメッセージは、私がガイドさんのセッションで感じていることと真逆すぎて、このメニューに取り組む私に対してじゃなく、人生のほかの要素について言っているのかなと、考えていました。

絵に関するある記憶と、メッセージの意味が腑に落ちたとき 

モニターお申込み分のお仕事が終わりに近くなった頃、先に書いた「自由に描いているときとの違い」について自分の心を精査するうちに、こんな思い出が浮かんできました。

描きたいように描いていたクラスメイトのこと

確か、小学校2年生のときのことです。
学校の体育館にオーケストラが来て演奏し、全校生徒で音楽鑑賞をしました。

その後の授業で、そのときの様子を絵に描くことになりました。

私は、色々な楽器を持った黒い燕尾服を着たオーケストラの男性たちがある程度バランスよく入るように配置して、演奏会なのがわかるように描いていました。

ふと、近くの席のクラスメイトの女の子の絵が目に入ったのですが、彼女は真ん中にでかでかと、ピンク色のドレスを着てマイクを持った司会の女の人を描いていました。
オーケストラの男の人たちはほとんど描かれておらず、司会者の両端にかろうじて小さく何人かの姿が見えます。

私はその絵を見てびっくりし、本音では「ずるい!」とも思いました。

小学校低学年だった私の目には、華やかなピンク色のドレスを着て、マイクを持ってお話ししていたお姉さんのことが一番素敵に見えたのです。
クラスメイトも同じ気持ちだったのかもしれません。
何て言ったって、そのとき印象に残ったのは司会の女性の方だったんです。

だから本当は、私もドレス姿のお姉さんを中心に絵を描きたい気持ちがありました。
黒服のオーケストラの男の人たちではなく。

でも、オーケストラの絵を描かなきゃいけないから……と思っていたのでした。
ピンクのドレスのお姉さんを描くのは楽しかったけど、オーケストラの横の司会の立ち位置にお行儀よくおさめていました。
それなのに、そのクラスメイトはドレスのお姉さんを堂々と中心に描いていたので、「えっ、そんな絵、だめに決まってるじゃん」という思いと、「(私もそうしたいのに、)ずるい!」という本音とが交錯したのです。

その上、驚きの結果が待っていました。

小学校で描いた絵は壁に展示されて、クラスごとに金賞、銀賞、銅賞のような感じで、数人の絵が選ばれて、絵の下に受賞の色紙を付けられるのが常でした。

私は大体、その中には入賞することが多かったので、今度はどうかなと興味を持って見ていたのですが、そのときクラスで一番の賞をもらっていたのは、司会者の女性を真ん中に大きく描いた彼女だったんです!

選んだのは先生ですが、素直に描かれたその絵には、魅力があったんでしょうね。
今の私だったらそんな風に考えることができます。

でも、そのときの私は、「信じられない……!」と、思っていました。
あの絵で、いいの?と、納得がいかない気持ちでした。
好きなように、あんなに大きく司会のお姉さんを描いても、それでいいの?

自分の創造性を、枠にはめないこと

そのエピソードが思い出されると、「ガイドさんの絵は、各ガイドさんに注意深く従って描かなければ!」と気負っていた私と、そのときと、根本に共通する不自由さを持っているのだと気がつきました。

あのとき、小学校の課題の絵でなく、いつもの自分だけの楽しみのためのお絵描きだったら、違う感覚で違う絵を描いたかもしれません。その差はどこから?

間違えないように、ある種の「正しさ」を意識して、枠を作っているんだ。
そう気づいたとき、こんなメッセージが降りてきました。

「協力したいとは思っているけど、主体性をなくしてほしいわけじゃないよ」と。 

チャネルされる(この場合はガイドさん)側も、逐一指示をしたいとは思っていない。
思い通りの作品を創らせたいなんて、思っていない。

そうじゃなくて、協力し合って創られるものに面白みがあるのだし、
この現実では、私を通して表現、発信される以上、私の主体性はやはり不可欠なのだ。

結局のところ、純粋に内から湧くものと、ガイドさんの世界が送ってくるものとは一致する。
自分の主体的な「こうしたい」は、信頼に足るものなのだから、気楽になってのびのびと描いても同じだったね!

そのことを、このメニューを通して、深く納得したのでした。

そこで、ようやく繋がったのです。
ガイドさんのメニューの最初とも言える、風太郎の絵の、発するメッセージの意味が。

「自由に、やれよっ!」


このエピソードには続きがあります。
「内なる自己の計らいは完璧」

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