前回のようなきっかけもあって、また、歴史について調べたり、考えたりしていたのですが……(前回の記事↓)
こうやって大人になってから自由に調べて、気づくことが広がれば広がるほど、学校教育って怖いなぁと思いますね。
だって、たとえ間違った内容でも、それが公式見解であると教科書で定められれば、生徒たちは否応なしにそれを学習しなきゃいけないんだから。
しかも、その通りに記憶できたのかどうか、テストや試験で確認までさせられる。
私はこれは違うと思うので、そんな答えは書きたくありません、とか、
教科書の見解が間違っていると思います、とかの主張も一般的には認められない。
いえ、そういう態度を取ってもいいにはいいかもしれないけど、学校教育からは、異端として脱落して行くっていうことですよね。
ただし今はインターネットの恩恵もあって、個人で調べたい情報を追究できるという点があるので、そこはよかったですね。
インターネットの情報は玉石混淆だけれども、様々な考えにふれられる可能性もまた事実で、疑ったり吟味したりするきっかけにできるでしょうから。
時代によって「正解」が変わることは多々あるのに、学校で求められているのはいまだに、「言われた通りのことを覚える都合のいい子ども」なのではないかと、考えてしまいますね。
現在の学校は体験してないのでわからないですけど(笑)、おそらく、テストや試験の制度、成績のつけ方の基本は今でも一緒でしょ。
もし、勉強の目的が入れ替わってしまって、学校で「いい点を取るために勉強」していたら、自分で考えないマニュアル人間みたいな大人になっても不思議はないですよね。
☆☆☆
それから、歴史の見解の推移について考える中で、人間の「情緒」についても、思うところがありました。
ストーリーのでっち上げをする際に、人の感情を揺さぶる、情緒に訴えるというのはとっても効果的で、何度もその方法が使われてきたんだなぁと。
虚偽の情報を、いつのまにかさも真実のように受け入れてもらうには、何らかの形で「同調」してもらう必要があるわけです。
たとえば、その時代の倫理に訴えかけるような正義感だとか、勧善懲悪のストーリーを仕立てあげるとか、あえて不遇の境地を語り同情を誘うなどは典型的です。宗教観を利用するという手もよく見られますね。
大勢の人が感情的に「肩入れ」しやすいように考えられています。
そのようにして、「大悪党」にされてしまった歴史上の人物は、たくさんいますよね。
裏を返せば、その人を悪者にした方が都合がいい誰かがそのストーリーを製作し、広めているというのに、多くの人がそれを信じれば、「現実」として共通認識になり、残っていく。
今の日本には「不敬罪」がないけど、昔だったらたとえ「それは違う」と言いたくても内容によっては言えないこと、言っても時の権力者の都合によってかき消されてしまったことって、たくさんあったんだろうなと思います。
さらに歴史という分野が特殊だなと思うのは、本当にそうかどうかわからなくても、断片から後付けでストーリーが作られてしまうというところ。
結局、「今」考えたり、想定したりする常識を過去にも当てはめていくということをすると、真実とは全然違うのに、もっともらしい「別の話」ができてしまって、その方が受け入れられたりする。
過去のことだからこそ、どうにでもこじつけられてしまうんですよね。
つまり「今」から創られているんですね、過去が。
なじんだ今の観念に沿って過去を見てしまうという誤謬を打破するには、実は、「直観」や「感性」といった、一見あてにならないとされている感覚を使っていくしかない。
それは正統なアプローチと言えると、私は思っています。
この時代はこうであるとか、こうだったと言われている説も、根本から間違っている可能性を孕むからです。
私たちの超感覚(特別なものではなく、本当は日常の感覚と繋がっているものだけど、現代の認識からは超感覚とされている)を、個人個人が使うしかないんですね。
それは、あなたのセンサーに引っかかって「なんかおかしいな」と思ったことは、たとえ理路整然と説明されていても、無理に信じない方がいいということだし、
逆に、誰も示していない見解だったとしても、「こういうことなんじゃないか」とひらめいたことに関しては、自分自身の中では握りつぶさない方がいい。
私たちは「未来」を選択するという発想には慣れているけれども、
「過去」もまた選択しているのだという意識を持つことも大事だと思います。
あなたの感覚に沿って、余分なものを挟まず、過去(歴史)を恐れることなく見つめれば、今、必要な情報は開示されるでしょう。
そのためには、横並びの思考に気をつけることです。
みんなと同じなら安心、じゃないですよ。
「多くの人が言っていることだから、正しい」と見なす癖があったら、要注意です。
情緒の話にも通ずる点ですが、いかにも「陰謀を暴く」みたいな、これこそが真実ですという正義感をあおる論調で語られている内容の中にも、
いや、むしろそれって、歴史上の人物への再三の冒涜じゃないの!?
と思うような筋書きもあって、観念の入れ子構造になっている感じがします。
(マトリョーシカの形のように、開けても開けても観念に囚われている。)
その背後には、その考えを流布する人たちの一定の宗教観や価値観が読み取れます。
“歴史”を解釈する者の心に強固な枠組みがあると、「今」という地点から、その形ですべてが「解かれて」しまうわけです。
思考の「癖」は、未来へと投射されるだけじゃありません。
過去の歴史を語るときにも反映されるのだということを、覚えておきたいですね
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