この数日はまた新しい何かの訪れというか、「白紙」の感覚が抜けなくて、不思議でしたよ。
その間、考えていたことの一部を言葉にするなら、「水清ければ魚棲まず」ということわざが近いような気がしました。
これはたとえば広辞苑の説明なら、
『あまり清廉すぎると、かえって人に親しまれないことのたとえ。』
とあるのですが、今回私が考えていたことはそれとは少し違っていました。
昨年から実践しているライフスタイルなどを通しても実感していることなんですが、
「人間が“汚れ”とみなしているものの中に、必要なものもあるんじゃないか。その役割を理解せずに排除しているものもあるんじゃないか。」
ということなんです。
自然界のものでもそうですが、「それ、本当は役に立ってるんだよ」、「なくなったら困ることになるんだよ」というものが、ただの迷惑のように判断されていることがある。
それは「スピリチュアリティー」の道においても一緒です。
私は昔ときどき思っていたのですが、精神世界やスピリチュアルの分野の探求や勉強に熱心な人たちの中には、素敵な人もたくさんいるけれど、一方でどうしてか、息苦しさがあるというか、正義感やジャッジがきつい人もいるように観察できることがありました。
別に、この分野に絞らなくてもそれは見受けられることだと思うのですが、特に“スピリチュアル”の教義やルールのようなものが存在すると、そこから外れることを恐れたり、見下したり、なんだか「自分は真理に従っている」とでも言いたげな、それ以外のあり方へ裁きを振りかざす姿勢があると感じたのです。
そのとき問題になるのが、「他者に」それをしているようでいて、実は「自分に」その矢が向かっているのだということです。
自分の中の「濁り」、清いと思えない部分、ルールや教えから外れていると感じられる部分、それを「まだだめだ、まだだめだ。これは排除しなければならない」と考えていたら、すごくきついでしょう。
そして、自分の中のすべてのパートが何か自分に貢献してくれているのだ、ということが信頼できなくなってしまいます。
自身の中に何か無駄なもの、悪いものがあると考えてしまうのです。
その見方だけを採用していたら、それ以外のものにはもう見えなくなってしまいます。
ただあなたを「邪魔しているもの」、「迷妄」、「なくなっていくべきもの」に思えるかもしれません。
でも、本当にそうでしょうか。
あなたの内にあるものは、すべて「あなたのために」起こっています。
たとえば一見、有益そうであなたを助けてくれそうな考えであっても、「人生をただ楽しもう」とか「悩まない!」でも何でも「ルール」にしてしまっていたら、今度は楽しんでいないときの自分を非難するでしょうし、悩んでいるときの自分に鞭を下すでしょう。
自分に起こっていることをわざわざ「帳消しにする努力をしたり」、「何も考えないようにしたり」して生きていく訓練をするなんて、おかしな感じがしないでしょうか。
なぜ、そんなことをする必要があるのでしょうか。
それは、「ひとりでに」そうなるということとは違っています。
雨が降れば、水たまりにぽつぽつ雨の滴が当たって、たくさんの輪っかができる。
次々と変化する「動き」は、楽しいものです。
長調ばっかりの曲を弾いていたら、短調の音も聞きたいなぁと思うに違いありません。
静寂ばかりが続いていたら、浮かれ騒ぎも恋しくなるかもしれません。
どっちかがいいとか悪いとかではなく、両方がひとつの側面で、そのどちらも「善いもの」なのです。
自然であるということは、色々な自分がいるということ。
変化する存在であるあなたを、ひとつの型にはめようとしたとき、何かひとつの状態だけを正解と定めて目指そうとしたとき、 苦しみが生まれる。
芸術家はよく、人が「美しい」と見なさないものの中にも「美」を見出しますね。
すべてのものの中に美の結晶を見つめる視点があなたの中にもあって、それは、壊れないし、なくならない。
ときどきはその感覚を思い出すと、見える世界がガラッと変わってしまいますよ。
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