3月の講座「真の自己の性質と、二元性卒業」への流れとして、最近の記事ではより多く「愛」にフォーカスしてきました。
真の自己の性質を理解するにあたり、私たちが日常的に使っている愛という語と、普遍の愛との違いを認識しておくことは必要です。
なぜなら、人間社会では、愛についての多くの誤解があるからです。
普遍の愛は、無条件の愛です。状況によって変化する愛ではありません。
私たちが「真の自己を忘れている状態」にあるときには、そうした愛が非現実的で、体験し難いものと考えます。
そして、愛への誤解を信じるがゆえに、多種多様の感情を生み出しているのです。
真の自己の性質を理解することは、状況に左右されない「基盤」を得ることです。
その基盤は失われることがないのですが、真の自己であることを「忘れている」ときにはそれが「無い」と思っていて、代わりに他の何かを頼りにしています。
すると、状況に影響されます。
自分の現実を自分が創っていると理解している人であれば、状況によって自分が何を感じるかを決めるというサイクルを断ち、逆にする(外から内を決めるのではなく、内から始める)ことが大切だと、心している方も多いでしょう。
けれどもこれも、基盤となる理解があってそうしているか、単にテクニックとして練習しているかで、内側で起きていることには違いがあります。
状況が本当に自分に影響を及ぼさないと知っているのであれば、自己を説得して「信じさせる」努力が要りません。
あなたのためになると頭で理解している「テクニック」を、自分自身に強制しているという感覚は、むろん生まれません。
そして、どんな状況を目の当たりにしても、それらが自分にとっての障害や抵抗の力であるとは見なしません。
真の自己を忘れた状態で「努力」した結果は、無力感に帰結する
本当には理解していないことを、ただルールに沿って練習しているとき、どこかで無理を自覚し始めるものです。
そして、頑張ってきたけれど、もうだめだ、と、くずおれる瞬間が訪れたとき、自分の無力さをかみしめて、うつろになります。
場合によっては、その無力感の隠れ蓑として、外を憎む(それまで実践してきた内容や、状況や、他者や世界を憎む)という形で、自身の力を取り戻そうとするかもしれません。
何か自分の外側に「敵」がいると思えば、一時的に闘いのための活力が湧くような錯覚が起きるかもしれませんが、いずれにしてもそれは自分自身への憎しみや失望にほかならないので、心の中は不幸なままです。
もしくは、そんな風に心弱ったときにも自分をなぐさめ、励まし、また立ち上がる努力をするかもしれませんが、まるで頂上へ昇ったと思うと急降下するジェットコースターのように、予測のつかない経験をすることが「人生の属性」として感じられ、生きることへの警戒心が完全に解けることはありません。
その昇り降りのスパンが長いか短いか、いつまたやって来るかは不明です。
人生には「避けたい物事」があるということになり、それをどう避けるかに心を砕きます。
細心の注意を払って用心の手段を探す人もいれば、何事も恐れない強い自分になりたいと、心を鍛える人もいるでしょう。
それぞれにとっての「確かそうなもの」を信じて実行し、状況をコントロールしたいのですが、結局、根底では人生とはいつどうなるか、信頼ならないもののままで、そんなあきらめを見ないようにするか、うまく手懐けるかしかありません。
ただ、うれしいことに、これらは「真の自己とは何かを忘れている状態」ならではの特徴です!
真の自己であるよろこび
あなたが真の自己を思い出すと、そうした幻想の苦しみは消えてしまうのです。
状況というのが一体何なのか、あなたは理解します。
それがあなたに対する支配力を何も持っていないと知ります。
あなたを拘束できるものは存在せず、あなたの心は、いつも自由でした。
どんな状況が現れようと、あなたの愛の流れを遮るものはありません。
このことに目覚めると、今まで何をやっていたんだろう!と笑いたくなるでしょう。
その笑いは、無理をしてあなたの心の一部を切り捨てた「作り笑い」ではないのです!
あなたが、あなた自身を知らないこと、その性質を勘違いしていることだけが、あなたを不幸にすることができます。
あなたの内に常にある、静かなる情熱
よろこびを感じられず、不幸でいるときの一例に、「何にも情熱を持てない」という状態があります。
そこには、自分の信じている「制限」が関わっています。
あなたの内には情熱が常にありますが、現在の状況や、これまで学んできた物事を理由に「自分にはそれができない」という判断を下すと、情熱を感じていても不可能だという思いで否定することになり、情熱自体が「無い」のだと結論づけるのです。
また、自分の知っている範囲の「形の世界」の中で、自分の情熱に当てはまる対象をマッチングさせようとした結果、「何もぴったりくるものがない!」と感じると、やはり内にある情熱そのものを否定してしまいます。
情熱の「対象」を探すと、これまで過去に見てきたデータの中から「何が当てはまるか、何なら可能か」を探すはめになり、自分の経験してきた「制限」の箱に囚われるというループが起こります。
その制限の箱の中にはもう、あなたにとって楽しいことはないわけですので、「ああ自分が情熱を持てるものはもう無いんだ」と失望するということです。
常に、静かに存在し続けているあなたの情熱は、消えることがありません。
あなたが内に注意を払えば、その存在を感じられるはずです。
自分がどんな要素に心動かされるかを、日頃からよく観察してください。
何かの作業をしているときでもいい、
人と話しているときでもいい、
本やテレビや映画といった作品を見ているときでもいい、
心動く要素があるとき、その方向性がいかなるものであれ、あなたの内にある情熱が語りかけているからです。
情熱をどう形にしていいかわからないという「状況の心配」は、真の自己を理解していないことから生まれます。
あなたの確かな基盤がどんなものかを、思い出しましょう!
★3月2日(土)講座「真の自己の性質と、二元性卒業」★
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