夜、外に出たとき、ちょうど霰(あられ)が降っていたんですよ。
雨だなと思って傘は持っていたんですが、音が激しいなぁ、大雨かなぁ、と思って出てみたらそうでもなくて、「?」と足元を見ると、コンコン落ちる丸い小さな氷の粒が。
霰は短い時間で止みましたが、意外にそのときの外の空気は冷たくなく、ほんわかやさしく、霰を味わえてよかったです。
ところで、今日見た夢や起きたときの体感は、「これは満月が近いのではないか」と思うものでした。
そのことが頭にあったので、月が出ていたら確かめようと思っていたのですが、夜空はグレーでしたね。
そこで、ネットで月齢を調べてみたところ、明後日31日が満月。
ということは今日(記事を書いている日)は前々日で、私がよく言及する「満月前日の体感」がそろそろ始まっているのは納得。
満月前に私が体験することの多い内容は、★「夢、明晰夢、体外離脱」★のカテゴリや、
★「霊的な話」★のカテゴリに入れていますが、
他の話題とドッキングしている記事もあり、どれかを例としてピックアップしづらかったので、タイトルがわかりやすかったこちらを載せておきます。
◆「満月前夜の浄化、アゲン!」
後から発見。最初の頃の記事の、こちらの説明がシンプルでわかりやすいです。
◆「満月フィーバー」
満月前の夢の特殊性は過去記事をご覧いただきたいのですが、「体感」がどう違うかというと、眠っている間に体の中がシュワシュワしていて、独特のエネルギー状態になります。
それは不快な状態ではありません。
むしろ、意識が「どこか遠くに行っていたな」と感じる類のものです。
今回のそうしたエネルギー状態での夢の活動で、印象に残った内容を書きます。
「想う気持ちだけで満たされている存在」です。
夢の内容
この夢は、夢の中で夢であると自覚して行動できる「明晰夢」ではありません。
ただし、先に述べたように、満月前独特の感触を伴い、私自身が遠くへ行っているような感覚がありました。
これから書く内容の前後にも、様々な体験をしており、そのどれもが違った舞台を持つ別々のものでした。
中には、今のこの私ではなく性別も変わり、体験の舞台もどこか異世界、少なくとも普段目にしている地球ではないものもありました。
どこか遠くの空間にいる私と、ある存在
気づくと私は、どこか遠くのように感じられる、ある空間にいました。
空間と書いているのは、そこに物理的な特徴がなかったからです。
物質的な形態をとる次元ではなさそうでした。
また、「遠く」と表現したのも、物理的な距離というよりは、精神的な距離という方がふさわしいのかもしれません。
私のほかに、そこには、ある「存在」がいました。
人間の感じではありません。性別もなさそうでした。
その「存在」は、とても「愛しい」としかいいようのない大きな「想い」で、ある女性のことを(私と一緒にいるところから、)眺めていました。
その女性は人間でした。地球人だと思います。
ただ、日本人かというと微妙で、海外の別の地域の人のような気がしました。
私は、今の自分と同じ感覚でそこにいましたが、その存在同様、私も人間というより「存在」である感じでした。「存在」同士としてそこにいました。
これほど大きな愛、想いが送られていても、その人間の女性は、この「存在」に、まったく気づいていませんでした。
夢の中では他の存在の思いや感覚が共有できますので、私は、この「存在」の持つあまりに大きな想いを共有して胸打たれて、
「私が(この女性に、あなたのことを)伝えようか?」
と、言いました。
この「存在」は直接それを女性に伝えることができませんが、人間の立場を経験している私には、同じ人間である彼女へ伝えることができるということです。
すると、存在はこう言いました。
正確には言語ではありません。語ではないテレパシーです。
「ううん、想うだけで心がいっぱいだから(必要ない)」
記事を書くにあたり私が語として表しましたが、これは胸一杯とか苦しいとかの意味ではなく、「満たされている」とか「うれしい」とか「幸せである」という感覚を全部含んでいます。
「いっぱい」は満タンとか、Fillとか、充足しているというニュアンスです。
その「存在」の、その感覚を受け取った(自分で体感した)とき……
私の(眠っている)肉体の方で、静かに片目から涙がつぅっと流れました。
私の感じたことも、やはり言語で説明できる感覚ではありませんでしたが、
近い説明をするなら、あまりにもいっぱいの、大きな愛だったからです。
愛という言葉を用いるのもはばかられるくらい。
(夢の内容、ここまで。)
愛の質の違い
これまでも、「愛」の質について、人間世界で親しまれている「愛」と、より広い観点からの愛(私たちの存在の異なる次元からの「愛」)との違いについて述べてきました。
この説明の便宜上、「高次の」という言葉を使いますが、
高次の愛というのは、人間世界で「愛」と総称されるものとはかなり違うものです。
人間の愛でも、それに近いものもありますが……
高次の愛は自己充足します。
相手という存在があることそのものに愛を感じていて、その対象に何かを求める性質のものではありません。「ただ在る」愛です。
この点において、地球世界での相互関係による恋愛やリレーションシップとは異なります。
地球では(そのことがよい・悪いという話ではなく)、ここでのエネルギー的な性質として、二極に分かれて物事を体験します。
愛も、「自分と、相手」という関係性から経験されることが多いということです。
自己のエネルギーのシフトを経験すると……
とはいえ、私たちが元々「なじみのある」愛は、高次の愛ですから、
いったん「本来の自己」に自分自身がシフトしてしまうと、人間世界の「愛」というものが「蚊帳の外」に感じられるかもしれません。
恋愛を含め、そうした人間愛のドラマは、ここでの愛しい体験や有益な経験ではありましたが、明らかに「本当には入り込めないもの」になるのです。
たとえば私は、ラップミュージックやR&Bの歌で描かれる恋愛模様を、娯楽としては楽しみます。ドラマ作品を見るように眺めているのです。
でも、昔そうであったように「共感」することがありません。
決して、どっちのあり方がよりいいとか、悪いとかではないんですよ。
地球人体験を、地球人らしく味わうのはおおいにけっこうなこと。
でも、人によるけれど、それも時期が過ぎたら終わるかもね……とは言えます。
私は元々の傾向が、「高次の愛はしっかり覚えているよ!」というタイプだったので、地球の「人間らしい愛のあり方」を沢山経験した後は、ふと、「この衣装、私には合わないのでは……わざわざ着る必要もないのでは?」と、舞台から降りる気持ちになっていました。
お腹いっぱいになるほど味わったので、それらを「理解」はできますが、その種のエネルギー舞台にもう乗りたいと感じないのです。
それと同時に、「時代的に」眺めても、思うことがあります。
それぞれが自己充足的になること
私たちの意識は、少しずつ変化しているので、今後はより、「自己充足的なあり方」を自然と感じて、体現する人が増えるでしょう。
このことは、2月11日(日)の講座◆「男性性・女性性のブレンド~あなたの最適バランスを認める生き方~」の内容とも関係しています。
このテーマのように「男性性、女性性」という言葉を使うなら、自分の中に男性性と女性性の両方があって、双方独自に使えて満たされている、というあり方です。
自己充足的と言っても、他者との関係を作らないという意味ではありません。
それぞれ自己充足的なエネルギーの人たちが、全体性を持った自分のままで、関係性を築いていくということです。
すると、従来の「愛」の概念は相当おかしなものに見えてくるかもしれません。
「その必要、ないよね?」
「自分のかけらを、他者に求めるのは変だよね?」
色々な発見があるかもしれません。
11日の男性性、女性性のエネルギーの講座は、そうしたあり方やエネルギーバランスそのものに興味がある方のほかに、ご案内記事に書いた通り、
「恋愛や、パートナーとの関係といったリレーションシップ」について見ていきたい方にも、私としてはお越しいただきたいのです。
家族を含め、従来の関係性の「形態」は今、大きく変わりつつあります。
これまでのような「愛の型」の概念が崩れてきています。
信じていた型を見直す人もいれば、旧観念に基づいて「型を守れ!」と叫ぶ人もいます。
色々なあり方が選択できます。
講座のご案内の中では、「特定の関係性をうまくいかせることが目的ではない」ということを書きましたが、「こうなるのがハッピーエンドである」という思い込みや、そこへ向かってのコントロールを手放す必要があるからです。
「うまくいかない関係性」も祝福なんですよ。
あなたにとって「本心に沿わない」部分はどこか、関係性を通して教えてくれているんです。
それは「相手をどうこうするために」起きているのではなく、あなたの内側にあるものを確認するための作業です。
あなたはどんな愛を感じていきたいですか。
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