BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

体調不良を自己ヒーリングしている最中に与えられたマントラと、体の健康、ヒーリングについて

この記事は、前回「近況報告と、この夏に手がけたい内容色々」の中で言及した、
体調不良でピンチ!のとき、自分で自分をヒーリングしながら起こったことのエピソードです。

前回記事はこちら

beats-and-love.hatenablog.com

それと一緒に、「ヒーリング」にこんな誤解を持っていませんか、というお話も語ります。

体の声、聴いていますか?

前回の記事で、私が最近体験した体調不良について書きました。
物事には、多角的な側面があります。
出来事をある角度から解釈すればそれが正当に見えるし、また別の角度から分析すれば、それもまた筋が通って見えるというように。

私は最終的には、「意識」そして「エネルギー的に何が起こっているのか」にフォーカスしますが、その表現の媒体である「体」を通して教わることも大事にします。

この世的な解釈、ごく一般的な描写をすれば今回の私は、始まりは夏風邪と捉えることができ、最後に自分の体の弱い部分である胃に症状が出た旨も記事に書きました。

過去記事を辿ってくださっている方は、お読みになったことがあるかもしれませんが、私は昔、もっと健康状態が悪く、急性胃炎を繰り返していた一時期もあり、医療では改善しなかったその状態からどう回復したかを時折、個人的エピソードとしてお伝えしています。

あなたの体に、最良の状態を発揮してもらうための、シンプルな習慣

その要点をシンプルに言うと、常にあなた自身の「体の声を聴く!」こと。
言い換えれば、「自分の感じていることに注意を払い、それに従う」ということです。

たとえば、現代社会では自分の体の声よりも、定めた「ルール」に従って生活をする傾向が見られます。
それが推奨されているかのようです。

食事は、1日何度、何時にとらなくては。
健康のためには、毎日これを食べなければ。
そういった「ルール」に杓子定規に従っていると、あなたの体の声は聞こえなくなります。聞こえていても、あなた自身が無視するということです。
このことは、過去記事で度々書いていますが。

体が「休んで!」と言っているときに、休まない。
その感覚を消すために、薬を服用したり、栄養ドリンクを飲んだりして頑張る。

「どうしても、そうせざるをえない都合があるもの!」
と、いかにそちらが大事で、体が言うことを聞いてくれないかを嘆くこともありますよね。

でも、体というのは、あなたと「別物」ではないのです。
あなた自身の一部であり、あなたの表現です。
そのメッセージを否定することは、「自分の一部を否定している」ということです。

あなたの直観や叡知を伝える感覚と、感情の違い

ただし、体の声を聴くことは、「感情の声」に従うことではありません。
「感情に揺さぶられ、勢いで何かをしてしまう」などの行為とは異なります。

体の声、と表現しているこのことも、体の感覚を伝ってあなたに語りかける「自身の叡知」や「直観」を指します。
あらゆるものがそうですが、体もまた、それらを伝えてくれる媒体となるのです。

こういうお話をすると、
「体(あるいは直観)の声って、無茶なことを言ってくるんじゃない?」
と、心配する人もいるかもしれません。 
そんな恐れが湧き出るときは、先の説明と、このことを思い出してください。

それは、あなた自身です。
あなたの一部です。
あなたの本当に大切なことや、欠かせない都合について、誰よりもよく知っています。

恐れによる言い訳をせずに、まずは実践し、どんな違いがあるのかを体験してみましょう。
すると、いかにそれに従うことが「ちょうどいいか」、自分自身の身に付けた観念や、表層的な知識よりも「全体を把握し、理解しているか」実感できるはずです。

体の調子をコントロールしようとして、「対立」してしまうこと

今回寝込むことになった前の私を振り返ると、プライベートでは2、3、
「事情を話して日程変更をしたとしても、差し支えなかったんだな」
と、わかる活動がありました。
相手はこころよく承諾してくれるし、先延ばしにして問題なかったのだと、後になってみれば、確信できる予定がいくつかあったということです。

でも、そのときの私はスケジュールを見て、先に延ばすと日程を改めて組み直すのが難しくなると思い、多少無理をしても「今」予定通り行う方がいいと考えてしまっていました。

このことは、救急車を呼ぶかどうか迷うほどの体調不良にまでならなくとも、もう少し穏やかな方法で体が示してくれていた「今休んだ方がいいですよ」というサインと流れを、コントロールしようとしていたということになります。

すでに書いたように、都合を優先して、それに体調を合わせるよう強いるということは、本質的には自己との「対立」になります。
今回の私は、いい例です。
予定通りに物事を行うかたわらで、体の調子を元に戻そうとしていたこと。喉の違和には、特に電話とスカイプの仕事を思うと声に影響が出ては困るので、滅多に飲まない風邪薬を飲んだ日があったこと。早めのケアをしたつもりで、体のメッセージそのものに応えておらず、残念ながら逆らっていたのです。

「調子を崩している体をいたわる」とき、それが体の本質的なメッセージに応えるケアになっているのか、それとも、単に表層的なコントロールをしようとしているのか、その違いによく気をつける必要があります。

他者と一緒にいるときも、体の声は同じだけ大切

話を戻すと、十何年も前には救急車で何度か運ばれたこともあるくらい胃炎を繰り返していた私は、スピリチュアリティーに沿った自己を取り戻し、体の声を聴くことが習慣になってからは、そこまで「細かく」厳密にそれに従わなくても、大きな体調不良は招かずに済むくらい、かつてに比べると基盤が健康になっていました。

ただし、胃をはじめ消化機能が敏感であるという点は変わらず、特に、質の良い睡眠を取れない日が続くと胃の不調に出るのです。
この夏、暑さとエアコンとで温度調整がうまくいかず、眠れない日々が続いていたことは、その条件に当てはまっていました。
前回記事でふれたように、噛み合わせと矯正治療の都合で、よく噛めないまま食物を取っていることも、通常より胃に負担はかけています(これは最近に始まったことではありませんが)。

そうした背景を自覚しながらも、夏なんだし仕方ないとあきらめ、普段通りのゆるさで、誰かと一緒にいるときには「これは私の体はノーと言っているものだけど、少しなら大丈夫だろう」というように、場に合わせて口にしてしまうことまでもが重なっていたのです。わずかずつでも、普段より弱っているコンディションのときにはしない方が良いことでした。
環境の変化もあり、完全に自己のみにフォーカスする機会は、意識して作らなければ減っていく傾向にあったのに、体への注意が薄れていたのです。

これは誰にでも当てはまる話ではありませんが、私にとって「味覚的に大嫌いだというほどではないので油断しそうになるけれど、体には合っていないもの」がけっこうあります。
それらは、一見わからない形で料理にまぎれていることもよくあります。
レストランなどで、注文したい料理にそれらが入っているかどうか知りたくて材料を尋ねると、必ず、「アレルギーですか」と尋ねられるのですが、いわゆるアレルギー反応とは違います。

例を挙げると、度々記事でも書いているニンニクやタマネギが該当します(両方、色んなものに入っているんですよね。これらは、匂いやしつこく残る後味の強烈さも好きではないので、体の方が大丈夫になっても好まない気はします)。
この話題で、過去にはこんな記事も書いてます。その頃知った五葷(ごくん)」についてのお話も。↓
「どーしても苦手なもの!&リフレッシュさせてくれたビーガンのお菓子」

beats-and-love.hatenablog.com

一部の発酵した食品も、コンディションによっては無理です。
体内でガスを発生するものは、私の胃に負担をかけ、他の食品の消化も妨げてしまいます。

こうして自分の体の得意・不得意を心得ているのに、ついやってしまうのが、
「他者につられて、自分の体の声をないがしろにする」
「少しなら大丈夫だと、高を括ってしまう」
ということです。

あなたは生活の中で、何に信頼を置いていますか?

ちなみに昔、胃炎を繰り返していた頃はそうした自分の体の反応に無頓着でした。
その都度その都度変化する「何を欲しているのか」の感覚や、各食物への体のリアクションに、注意を払っていなかったのです。
その頃信頼できると考えていたのは外の情報や、栄養学などの常識とされるルールで、そうした「頭の判断」に基づいて自分の食事を決めていました。
それらを白紙に戻し、自分の体を「よく観察し、発見する」時期を経ての今があります。

一方、今のように、そうだとわかっているのにないがしろにすることが重なると、体にとっては「わかっていない」のと同じです。

十何年ぶりに急性胃炎とよく似た激痛に体を横たえた今回、ひたすら痛みは続くものの、昔そういうときに同時に起こっていた吐き気等、他の症状はないことに感謝しながら、体に謝る気持ちで自分をヒーリングし続けました。

もし吐き気が始まってしまったら、経験から言って、救急車を呼んで病院で治療してもらう方が良いだろうと考えていました。もし急性胃炎であれば、病院でどういった手当てが行われるかも知っています。

ただ、点滴を打ったりその他諸々、病院での様子を思い描くと、
「行ったら、薬のおかげで、この激しい痛みが楽にはなる。でも、行きたくない……」
と感じて、なんとか行かずに治るよう、自分のエネルギー状態をチェックし続けました。

自分をヒーリングしていると、聞こえてきたマントラ

実はこの1、2ヶ月、普段以上に、自身へのエネルギーワークに力を入れていました。
より多くのエネルギーを意識的に流していたと思います。

でも、それは「休むべきときに休む」ことの代用にはなりません。
また、起こっていることを単に麻痺させる目的のものではありません。
たとえて言うなら、表れている疲れや症状を抑制したり、紛らせたりするための薬とは異なるということです。

痛みの中で、自分のエネルギー全体のチェックをすると、今行っているヒーリングは「この体調不良をストップさせる目的ではなく、やるべきことを迅速に進める手伝いをすることなのだ」ということを認識させられました。

心の目には、色々な存在が手助けしてくれている様子が映りました。
小さな光の粒の妖精のようなものたちも、体の中に入って癒してくれています。

救急車を呼ぶ事態になっても出られる支度を整えて待機していた家族と、時折会話をしながらも、私は同時にエネルギー世界で起こっていることに注意し続けていました。

すると、ふいに、あるマントラが意識に聞こえてきました。
私が、病院に行って薬で痛みをおさめるという形ではなく、家にいるまま回復を望むと心の中で意図した後のことです。

それは私の聞いたことのない言葉でした。
地球上の言語を全部知っているわけではありませんので何とも言えませんが、まるで「宇宙語」のようでした。

4、5個くらいの語句が、繰り返され、それは今の状況の手助けになるのだということが伝わってきました。
しばらくの間、それらの語句はマントラとして、心の中で何度も聞こえてきたのです。
不思議と、痛みが和らぐまでの間は、時間がかかってもその語句全部を忘れることがありませんでした。(今は2つの語句のみしか、覚えていません。)

伝統的なマントラもいくつか知っていますが、それらとは全く違う言葉です。

話しかけてくれたのは、ひとりの存在ではなく、ある領域の数名のグループの存在たちでした。
その後は初めて、痛みにも関わらず短い間眠ることができ、次に、起き上がって湯ざましを口にできるくらい回復し、あとは順調に、ゆっくりと体が元通りになっていくのがわかったのです。

「これをやる気があるのか?」に近い問い

このように興味深い体験をしただけでなく、臥せっている間には、自分への問いかけも心に流れ込んできました。

自分自身と、ヒーリングを手助けしてくれた存在たちが、
「こうした世界のことをやる気が、あなたには本当にありますか。」
と、問いかけているのがわかったのです。

改めて、決断を問われ、私はどうしたいのかを確認されました。

私が自主的に、それをやりたいのか。
見えない世界に、今後も意識的に関わり続け、その人生を受け入れていく自覚はあるのか。

これらはテレパシーで行われている内容ですので、言葉にすると色々な形になりますが、私には概念そのものが伝わってきました。

ヒーリングへの誤解

最後に、ヒーリングへの誤解について、簡単にふれて終わりにします。

人によっては、エネルギーヒーリングと聞くと、
「痛みが瞬時になくなる!」
「悪いところがたちまち治ってしまう!」
という効果を思い浮かべるかもしれません。

少なくとも、「奇跡」レベルの治療ができるヒーラーであれば、そのようなことができるだろうと。

けれども、私たちの存在をより広い視点で捉えているヒーラーであれば、表れている症状を誰に対しても「ただ治す」とか「取り除く」ということはしないものなのです。

あなた自身である霊的な自己は、「自分には今何が必要か」最善の状態を知っています。
その内容は、人それぞれです。

体やその症状のみならず、様々な日常の出来事も、意識の「表現」です。
あなたの意識がもし、それら「表現」を通して学びたいことや、目的があるならば、表現だけをストップさせることは「妨げている」ことになるのです。

場合によっては、ヒーリングの効果とは、あなたの状態を浮上させて物事を「加速させる」形になることもあります。
エネルギーが流れ、滞りが解消されると、調和したエネルギーにふさわしくないもの、浄化する必要があるものが明らかになり、眼前に現れることがあります。

蓋をしていたものに、蓋をする必要がなくなり、あなたはそれと対峙することができるのです。
その状態は一過性のものであり、明らかに癒しのプロセスなのですが、人間の表層的な目からは「悪くなった」ように見えるかもしれません。

また、「死」に向かっている状態についての誤解もあります。

肉体の機能を停止し、肉体を通した経験を終えるときを、私たちは「死」と呼びます。
あなたは存在し続けますが、あなたの「この人生」の最期は必ずあります。誰にとっても、そうです。

本人である霊的自己がすでに決断して、肉体の経験を終える途上にあるとき、他者が「死なないようにさせること」はヒーリングではありません。
死と呼ばれる「移行」が本人にとって望ましい形になるよう助けることや、残りの時間を大切にすることはできます。

かつて私は、家族の一員であった動物を看取った経験を通して、そのことを学びました。
思い出を振り返り、2012年に書いたものが、以下の記事です。

「旅立つ君へ(死のこと)1」

beats-and-love.hatenablog.com

「旅立つ君へ(死のこと)2」

beats-and-love.hatenablog.com

「旅立つ君へ(死のこと)3」

beats-and-love.hatenablog.com

「旅立つ君へ(死のこと)4」

beats-and-love.hatenablog.com

近頃私の意識の向いている、多様な生物との異種間コミュニケーションのテーマも重なります。
ご興味ある方はこれらの記事を読んでみてください。


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