BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

守らなきゃならないと思っていたものが負担で、負担と思っていたものが守りたいものだったら?

だいぶムシムシする季節になってきたなぁ、という感想。

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こちらは昨日の空。

今回タイトル「守らなきゃならないと思っていたものが負担で、負担と思っていたものが守りたいものだったら?」は、スピリチュアリティーとともに自分そのままの自己を認めていったときに起こる「逆転現象」を表しています。

この記事で使っている「守りたい」の言葉の意味は、ルールを守るとかではなくて、
「あなたが価値を置くもの、大切にするもの、保守」という意味の方です。
そのようにお読みください。

あなたがあなた自身であるとき、そうでない考えや振る舞いを取り入れていた頃の捉え方と「あれ?逆だよね」と、気づくことがあります。

生まれながらのギフトを負担と思っているときもある

たとえば人は、自分の生まれながらのギフトを負担と思っていることがあります。
それは才能であるとか、その人の個性、特質といったもので、あなたの選んできた、授けられてきた宝であるのに、「こんなものなくしてしまいたい!」と、苦しんでしまうことがあるということです。

実際に、自分に抗って「なくそう」とすることが多々あるでしょう。

なぜそんなことが起こるかというと、
「世間に都合の良い自分(あなたなりにそう考えるあり方)」、
「周りに教えられた通り、フィットした自分」でいようとするから
です。

そっちこそ、捨てちゃえよ。
と、言って終わりにできればいいですが、私たちは社会的な生き物でもあるので、
「そこからはぐれる自分、孤立する自分」
というのは生命を維持できないイメージに直結し、大変な恐怖でもあるのです。

内にあるものを外に見ている。
……ということを忘れているから、「自分を生きることは孤立することだ」と勘違いできるんですけどね。

霊的存在としての、魂のあなたとしての「生命」はどうなのでしょう。
その観点からは、「自分が自分であること」をそのまま生きることが、生命力を最も発揮した生き方であり、それを覆い隠して生きることは「生きながらに死んでいるような状態」であるとわかります。

もちろん、霊的存在としてのあなたは「肉体の停止とともに消えるわけではない」のであり、以後も存在しているのなら、今回の人生でなくてもいくらでも「経験」はできるはず、どんな生き方をしてもどうでもいいのでは!と思う方もいるかもしれません。

でも、それはたとえるなら、ゲームに参加しておきながら、ゲームの意義そのものを否定するような姿勢です。
「このゲームやりたい!」と参加したのは自分なのですが、その自覚を失って

「ゲームなんてどうでもいいよね」と、投げ出す感じです。

そのまま生きてしまうと、自覚を取り戻してからの「しまった!」という後悔は、死んでから(ゲームから退場してから)ということになるのです。

これは別に脅しとか、「だから○○しなさい!」と義務付けるためのお話ではありません。
ただ、霊的視点からの「この人生という機会」の感覚を、思い出すための例です。

現代社会で、多くの場合、私たちはこの人生の終わり、死による退場を日常であまり意識していません。そのまま過ごすことも可能です。

この人生には終わりがあるよ。
なんで自分はここに来た?
自分が自分であるって、どういうことなんだ?

この答えはひとつではないので、
そういったことをちょっとでも真剣に考えたら、あなたは自分のギフトにも気づくのです。
「あっ、これは私を邪魔しているんじゃなくて、助けてくれているんだな」とわかるのです。

自分を受け入れるというのは、とても奥深い、奥深いものです。
人間の葛藤の根源に繋がるものです。

あなたの人生の「負担」は、自分を否定するところから生まれています。
この場合の否定とは、表層的に「こういう私はいい・わるい」と判断することを指しているのではなくて、もっと根源的に自分をどう見ているか、ということを指します。

価値観の逆転、霊的自覚と個性の両方を持ったあなたが大切に思うこと

かつて、私は「自分には守りたいものなど何にもない!」という心境になって生きていたことがあり、それを快適に思ってもいたのですが、今は違います。

ただし、そのさらに前に「守りたい」と思っていた内容はどうでもいいことに変わり、
その当時に過小評価していたことが、今では守りたいことになっていると認識しています。

霊的な自覚を持つ前と後とで起こる、表層上のこの逆転現象は、避けられません。
また、その過程では、過去の私のように、
「守りたいものはなーんにもない」
という、ある種すがすがしい境地に至ることはあると思います。

それらの流れは、こう表せます。

霊的な自己を忘れている状態

思い出して、真のアイデンティティーの回復
(霊的観点に同調して「何もかもOK!」、「守りたいものなんてない!」の気持ちが生まれる。これまでの価値観を構築し直す。)

この舞台の自己を動かしつつ、霊的自己として活動する
(「目的も、守りたいものもありますよ」の状態)

つまり、霊的な自己の観点を持ったらそれで終わりではなく、今度は「自覚を持った状態での活動」が始まり、そのとき「この舞台での出演者としての自分が何をしたいか」を設定として利用していきます。
あなたの人生を映画にたとえると、当然、映画の主人公(この人生のあなた)の目的も、守りたいものも出てくることを「意識的に了解する」ということなのです。

そしてその内容は、あなたが霊的存在であると自覚する前に重要と感じていたこととは違っていて、かえって軽んじていたことの方が大切だとわかるかもしれないということです。

やり切った!は本当?

ところで、魂としてのあなたが「この人生、やり切った!」と感じる可能性があるとしたら、亡くなるときです。(死の際に必ずそう感じられるという意味ではありません。)

逆に言うと、あなたがどんなに「この人生、もうやることはないな。達成し切ったのでは」と感じたとしても、あなたの寿命が終わっておらず、今日も人生が継続しているなら、魂としてあなたはまだここでの経験を望んでいるのです。

本当の「嫌」と、恐れによる「嫌」を見分けよう 

あなたが守らなきゃ!と考えていることは、あなたが手放すといいことで、
負担だな、と感じていたことが、あなたがチャレンジするといいことだったら。

そこで気づくことは、
あなたの個性に本当に必要がないから感じる「嫌(興味ありません)」の感覚と、
恐れからやってくる「嫌(やったら面白いのかもしれないけど、怖いです)」の感覚と、
異なる種類の「嫌」という反応があり得ることです。

恐れからやってくる「嫌」も、あなたにとっては「本当に嫌なんだよ!」と感じている可能性があります。強く恐れていればいるほど、そうなります。
でも、そのときの特徴は「嫌だ」と感じつつ、それを行っている人たちを羨ましく思ったり、憧れたり、ときには嫉妬したりしているということです。

その状態を打破するためには、まずは「気づくこと」。
あなたの心の中の、微妙な動きを観察することです。

一方で、「自分の個性に本当に必要がないから感じている嫌(興味なし)」を勘違いして、「殻を破る!」なんていう意図のもと、他者や何かをお手本に無理して何かをすると、ひどく消耗するし、実りも少ないと実感するでしょう。

私たちは生きている限り、この人生での「自分」を体験し続けます。 
自分のことはすべて知っている!わかっている!と決め付けたら、発見がなくなります。

未だ気づかずにいるあなたの要求や、次なる展開も、避けずに受け入れていきましょう。


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