BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

内なる自己の計らいは完璧

今回タイトルは「内なる自己の計らいは完璧」

これは、言い換えると「あなた自身」を信頼するというお話でもあります。

人間である「私」は、欠点だらけで、失敗もするし、信頼なんてとても……と、思う方もいるかもしれません。

でも、どうでしょうか。
あなたは、深いところでは、知っているのではないでしょうか。

ときには自分で打ち消してしまう、「自身の内側から湧いてくるもの」の最終的な確かさを。
奥底に、常に、しっかりとあなたを支えている叡知があることを。
その叡知は、自然界や、星々の営みを支えているのと、同じ種類の力であることを。

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(実家の庭に咲いていたバラ)

まるで人間は、「内なる自己」と、表層で慣れ親しんでいる「自分でこうと思っている自己」との戦いを続けているようです。

ときには信じようとし、ときには疑い、ずっと揺れ続けて、定まらない。

その疑っている相手とは、状況がどう見えようと、常に「自分」なのです。

あなたが誤解し、挑戦し続けている相手は、誰。 

ここで、最近の私の小話を。
前回の記事の続きにもなるエピソードです。 

前回「自由に、やれよっ!~協力するけど、主体性をなくしてほしいわけじゃない~」

beats-and-love.hatenablog.com

自分のこと、本当に知ってる?

あの記事を書いた後、私は、総合してこういったことを思いました。

「もう少し、自分の絵への想いを(自分が)評価してもいいのではないか」

小学生のときの、ささいな思い出を書いたことから、
「本当に小さな頃から、絵についての想いは特別にあったな」
「そして大人になって以降は、そのことを『過去の産物』と片付けていたな」
と改めて実感し、絵に対して持っていた情熱を、あるときから自分自身が低評価し切り離したことに思いを馳せたのです。

その境目となったのは、大学に入るときであったこともわかっていました。

細かく分類すれば、私の場合は絵全般というよりも漫画と呼ばれるジャンルに入る絵ですが、ずっと、勉強をしなくてはならないときでもそうしているふりをして、隠れてまで描いていた絵を、完全に描かなくなったのは大学生以降でした。

あんなに大好きだったのに、本当にぷっつり、描くのをやめました。
不思議なほど、もう描きたいとも思わなくなりました。

そのことを後から私自身で分析すると、
「自分の人生の役には立たないと判断して、あきらめたんだろうなぁ」
と言うことができます。

当時は、「将来の仕事になるか、ならないか」、必死な気持ちで自分の心の向くあれこれを、見極めていました。
そのとき敷かれていたレールから完全に離れる勇気もなく、かろうじて乗ってはいたものの、本音では大学へ進学する意義がわからないまま、自分にとって心からの意味も見出していない道へと進む瀬戸際で、「これがあるから、私に大学は要らない!」と代わりに証明できる何かを探していました。
それも、自分に対してという以上に、親に対して提示できるものを、という考えに基づいて、です。もしくは周囲に対してと言えるのでしょうか。

「大学に代わる人生の確かな道(周囲への説得材料)になり得るか」、その基準で物事を判断していたから、多くのものは「だめだ!不十分!」と失望することになりました。

客観的に判断して、私の描く絵、漫画は、そこまでのものにはなり得ないと考え、当時の自分は意図的にではないにせよ絵に向かう心を封印したのだと思います。
それは言い換えれば、本人としては「自然に」モチベーションを完全に失って描けなくなる、ということです。

音楽も、絵も、その頃大学進学に代わる「確かな道としての説得材料」には不十分でした。
自分の中で残っていた「文章を書くこと」は……
私の行った大学には詩や小説を書きたい人が多く集まる授業がありましたが、そういう形には興味が引かれず、自分が面白いと思えませんでした。

かといって、心の中で『自分の思う大人の目線で』色々判断してしまった私には、これまでのように好きだったことを「ただ続ける」ことが、もうできませんでした。

それらを取り戻すまでには、一定の年月がかかりました。

文章は常に書かざるを得ない環境になることが多かったので喪失感を持ったことはありませんが、音楽については早い段階から沢山の「向き合う作業」を経て、少しずつ色んな発見をし、近年ようやく「ただ楽しむ」ことができるようになりました。

そして、絵については、すっかり「もう関係ないだろう」と意に介していなかったのです。

途中、このブログを始めてから、ぽつぽつとイラストをアップしたりしていましたが、それも最初は、「見えない存在を誰かに説明するには、描いた方がわかりやすい!」という利便性に負けて仕方なく始めた、という感じでした。

こうしたことを、ちょっとしたきっかけで振り返ると、

私は、本当に私を知っているのか。知っているつもりで生きているけれど。

という疑問が浮かびます。

どんな人にとっても、そうした「埋もれている自分」をも決して忘れずに、ピックアップして見せ続けてくれるのが、眠っている間のです。
夢については、また後でふれます。

内なる自己やガイドさんは、あなたの許可を尊重しながらサポートする

以前から、ふとした折に、
子どもの頃の、自分の、絵に対する情熱……
それをこんなにもきれいに無くすことが、できるものかね?
と、一抹の不自然さを感じていたことはありました。

とはいえ、ここでお話ししておきますが、別に、無理にまた昔と同じ情熱を持たなくてもいいのです。
三つ子の魂百までと言いますが、変化する性質もたくさんありますよね。

ただ、ある時期を境にぷつっと情熱が消えるとき、そこに影響している観念、そのとき信じてしまった決意、思い込みがあることがあります。

するとその情熱は消えてしまったわけではなく、そうした「自ら設定した制限」に阻まれて、鳴りをひそめているんですよ。

内なる自己という「あなた自身」、そしてあなたをサポートしているガイドさんたちはそれら全てを忘れていません。

あなたが制限を解くという許可を自ら出すとき、適したタイミングで協力してくれます。

どうしてこのタイミングで!?と驚く出来事 

私もちょうど、先日実家を訪れた折、そうした出来事を経験しました。

なんと、長い間目にしていなかった「小学校低学年の私が描いた絵画」が、額に入って置かれていたのです。

それは元々その形で保管されていたようですが、どこに仕舞ってあったのか、私は知りませんでした。20年くらい見ていなかったのではと思います。

なんでも、部屋の物置の整理をしたために、出されたものだということでした。
記事で小学校低学年の頃の絵の話題を出した直後という絶妙なタイミングで、そんな絵と対面することになり、本当にびっくりしました。

家の者があのブログ記事を読んでいて、発掘したのでは……というわけでもないのです。母は私の記事を読むこともありますが、その作業をする際、その記事を読んではいませんでした。つまり、偶然の流れで、絵が出されていたのです。

その絵とは、たぶん小学校2、3年生の頃に書いた絵で、いつかの私は「捨てればいいのに」と言ったのですが、確か母が「好きだから」と反対して取っておいた絵でした。
もしかすると、何かの賞をもらってもいたような気もするし、それは違う絵のことだったかもしれません。絵にまつわる詳細はほとんど忘れていました。

ともかく、今の私の目から見ると、幼い私なりの構図や躍動感が新鮮で、色遣いには私らしいカラフルさもあり、これまでとは異なる感覚で捉えることができました。
かつての私は過去のすべての絵に価値を置かず、本当に執着なく「捨てれば?」と思っていたのですが、自分の心構えが変わると、絵の見え方も変わります。

こうして思いがけず再び眺めることができた状況の機微や、私よりもその絵に価値を見出してくれていた人がいたことなど、諸々に「ありがとう」の気持ちが湧いてきました。

同時に、「自分の、絵への想いを評価し直そう」と考えていた矢先にこの出来事があったことで、自身の奥にある意図や、ガイドさん(ヘルパーチーム)の粋なサポートを実感することにもなりました。

起きている間の現実でも、夢でも、伝えられている。

ちょうど先日の日曜日は、全3回のオンライン講座「明晰夢基礎~明晰夢に親しもう~」4月からのクラスの最終回でした。

オンライン講座についてと「明晰夢基礎~明晰夢に親しもう~」ご案内

beats-and-love.hatenablog.com

講座内でもお伝えしましたが、起きている間の現実でも、夢の中でも、私たちは現象を通して自己と向き合います。

このことは、
自分について恐れを持っていると、体験が制限される
ということなんです。 

あなたには叶えたい夢がありますか?もっと自由な人生を経験したい?
生命や自然界の神秘、意識の可能性や未知なる要素を、探求したい?

そのときに必須なのは、願望実現や何らかのメソッドを学ぶことではありません。

あなたが、あなた自身を、恐れによって嫌ったり、否定したりしないこと。
そうしている部分があるなら、なぜそうしているのか、しっかり見ること。

根源的な自己への信頼。これこそがまず、大切です。

内なる自己は、あなたに語りかけ続けています。
メッセージは、日々届いています。
起きている間のあらゆる出来事を通して。そして、夢の中での体験を通して。

さぁ、目覚めてあたりを見回しましょう。

あなた自身の、内から行われているセットアップは、完璧です。
それに気づいて共に流れるか、気づかずに違った意味付けをするか、です。

6月の講座(会場で行う講座)では、「自己に意識を戻す」ことを扱います。
他者や状況といった外の要因につられず、現実を自己の内側にあるものと自覚するための内容です。
詳しいご案内は後日、記事でお知らせしますね。


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