何かをするとき、あるいは選択するとき、「~のために」という動機を考えていることがあるかもしれません。
それは誰か「人」かもしれないし、「家」とか「社会」とか「国」とか「地球」かもしれないし、「霊性」とか「進化」とか「未来」とかの様々な語が入るかもしれません。
しかしそれらは幻想で、すべてはただ「自分のため」なのであるということをお話しします。
誰かや何かのため、ではありません。後からわかる結果として、誰かや何かのためになることはあっても、究極的に純粋な動機は「自分のため」しかありません。
創造者目線では「私」の動機しかない
「この世界」目線では、あたかも「誰かや何かのために決定すること、行うこと」もあるということが、当たり前のように感じられるでしょう。
でも、魂の目線、「創造者」目線だと、違います。
本来の「私」の意識に戻ると、「私の動機」以外に存在するものはないとわかるのです。
それはつまり、あなたの経験すること、あなたに起こることのすべては、何らかの形で「あなた自身の動機によって」存在するということです。
ただし、このときに、その「解釈」には十分注意してくださいとお伝えします。
以前も記事に書いたように、「あなた自身が、自分を何であると信じているか」が非常に重要だからです。
たとえば、自己への不信や、自分を疑う気持ちの強い人、悪意に満ちた自己像を心のどこかで信じている人は、その観念を改める必要が出てきます。
参考◆「ポジティブシンキングしなくてもいいけど、主語を私で考えてみよう」
創造者であるあなたの「自身への見方」が外に投影されるということ
あなたの自己像にある、自分への思い……それがネガティブなものであると、現実についてもネガティブに「解釈」し、その思いを他者へと投影し、その上、その内容をまた現実が裏付けする…というように「ループ」にはまってしまいます。
こうして文章で説明していると実感が湧かない方もいるかもしれませんが、
「解釈」といっても、それは各々の「私」にとっての現実になるのだと思い出してください。
私たちはそれぞれ、自分の解釈を現実として経験しているのです。
詳しくはリンク先の記事も参照していただきたいのですが、ここは大切なポイントなので今回も簡単な例を挙げます。
想像してみてください。どこか、職場でも、道でも、よく行く場所でもいいのですが、そこであなたと誰か(Aさんとします)が並んで歩いていると、すれ違いざまにAさん側へ人がぶつかりました。
ぶつかった相手は、そのまま早足で通りすぎてしまいました。
すると、Aさんは怒り(あるいは悲しみ)ながら、あれは自分に対してわざとやっている行為であると言いました。
あなたから見るとそうとも思えなかったので、その旨伝えますが、Aさんは「いや、過去にもこういうことをされたし、こんなこともあった、あんなこともあった」と、その観念に基づく証拠、実際に自分が経験したデータを次々と例として挙げたのです。
そしてAさんは、「自分はいつも、こんな目に遭うのだ」とも話しました。
これは例ですが、そう珍しいケースでもないと思います。
「いつもAさんのような考え方はしていないよ」と思う方でも、他の状況、他の条件の下で、あなたのそのときの「気分次第」では、似たようなネガティブな観念に基づいて物事を捉えたことがあるのではないでしょうか。
この例を、「Aさんは世界をネガティブに捉える癖のある人なのだ」と見る方もいるかもしれませんが、もう一歩進めて気づいてください。
それは「世界をどう見ているか」ではなくて、「自分をどう見ているか」だということに。
世界は、「私」の中にあるからです。
私と世界は分離していない。すべては「私」の中にある。
世界が「鏡」のように自分の心を映し出す、という概念を受け入れている方であっても、その「鏡」があなたと離れて「外側」にあると考えているとしたら、まだ錯覚しています。
すべてはあなたの中にあります。
あなたの外側は存在しません。
それはすなわち、あなたはあなたの肉体という境界を超えていて、あなたの経験している世界全体があなたであるということです。
ええっ?私の今歩いているこの街も?この風景も?人々も?木々も、鳥も、空も……?と、驚く方もいるかもしれませんが、あなたの経験する現実のそれらは、すべてあなたの中にあり、あなたのエネルギーによって構成されています。
これを把握していただくのに最適な例が、いつも私がお伝えしている「夢」の例です。
夢の中では、あなたは色々な場所にいて、あらゆる人々や生物と出会い、様々な経験ができますが、「目が覚めて起きると」、それらはすべて「あなたの意識の中」で起こっていたということが明白に感じられるでしょう。
起きている間の「この現実」も、同様なのです。
夢があなたの意識内で創られているのと同様、あなたは、あなたの経験する世界の「創造者」です。
人のため、○○のため、はダブルクッション
自分の心の中をダイレクトに見る勇気がなかったら……
何らかの理由で、自分の中に「見たくない領域」を作ってしまったら……
あなたは、あなたの心を「外側に見える劇」として上演して、確かめるかもしれませんね。
現実という鏡に映して自分の心に気づく、という時点でワンクッション。
さらにそれを「他者によって・○○によって」という形で上演するなら、ダブルクッション。
誰かのために……○○のために……と考えているとき、そこに隠れている「自分の心」を見てみましょう。
そこには必ず、「あなた自身の動機」があるからです。
誰かのため、○○のため、という形にすることで、直視するのを避けている「あなた自身の思い」を見つめると、あなたは自身の感覚とダイレクトに繋がることができます。
他者のため、○○のため、という理由は幻想です。
どんなにそれらしく見えても、その中には純粋な「あなた自身の動機」があります。
別に、そこ(動機)にもっともらしい理由付けをする必要はないのです。
「ただ私がそうしたかったから」でもOKです。
でも、主語を「私」ではなく「誰かや何か」にして、それを盾にしてしまうと、自分が見えなくなってしまいます。
そのときあなたが遠ざけているのは「私自身の心」なのです。
大義名分によって自分自身から遠ざかる。自分の感性を失わないこと。
国のため、宗教のため、△△のため……「自分自身の感性」よりも、大義名分を優先すると、おかしなことになります。
自分がついていくと決めた人や、“愛”や、論理や、理想を前に、自分の心は犠牲にしてもかまわない。
そんな風に思っているとき、ストップ!です。
そういったあなたの認める「正義」や「正論」は確かなものに思え、あなたはそれを拠り所とすることで、自分の心の「不安定な軟弱さ」から逃れられるような気がするかもしれません。
自分の心の方が不確かに思えて、怖いからです。
自分自身の本当に思っていること、「ダイレクトに感じたらわかってしまう自分の心の真実」の方が恐ろしいからです。
そのように自分を信じられないとき、拠り所にできないとき、外に信じるものを見つけます。
そして、自分の心の方は見なくて済んだ、と胸をなでおろすのです。
でも、それは仮の「安心」です。あなたの違和感は消えません。
「世界」はあなたの意識によって創られ、あなたの心が投影される鏡なので、あなたはいずれにしても別な形で自分の心を見ることになります。
そこから逃れることはできません。
このことを自覚せずに「外」を見ていると、「外」があなたを脅かしているように見えます。
自分と離れた外側に苦しみが、悪意が、戦いがあるように見えます。
これを解決するにはたったひとつのことをするしかありません。
自分の心を自分が知ること。
それをそのまま受け容れ、それを生きること。
大義名分はいらない。
誰かのため、という言い訳もいらない。
あなたは、あなたのために、あなたの心によって物事を選択します。
いつでもそうです。いつだってそうです。
「誰かや何かのせい」にしているときですら、本当はそうなのです。
「自分を生きる」ということは、
世界の登場人物としての“他者”の存在がある中で、同じく登場人物として存在する“私”を自分と信じている場合の「自己中心的な生き方」とは、全く違います。
すべての生命の源である「私」という一者、「創造者」としての目線にあるときの、自己一致した生き方なのです。
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