BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

善意や熱意のカバーを取り去り、本心に直面すること(構造の話、続き)

この回は講座のご感想紹介をと考えていたのですが、前回の「構造の見直し」の記事の流れにシンクロする出来事から気づきが深まり、こちらを書くことにしました。

「善意や熱意のカバーを取り去り、本心に直面すること(構造の話、続き)」です。

前回の記事「構造の見直し~古くなったエネルギーを手放す~」

beats-and-love.hatenablog.com

記事に書いた旧エネルギーを手放す流れは、私自身感じていたことですが、直接自分が関わる作業のみならず、ここしばらく日常に起こっていたある予想外の出来事も「構造の見直し」をテーマとするシンクロを示していることにふと気がついたのです。

何気なくその出来事について考えたことが、思いがけない理解をもたらし、進行途中にあった「自身の旧エネルギーを手放すこと」をも促進してくれました。

日々の日常(everyday life)も、自分の意識の中で「反映されている現実」ですから、その中の一見関係なさそうな物事がきっかけで、発見やブレイクスルーが起こることは多いものです。

そのように、インスピレーションのきっかけになってくれた、今回の出来事とは……。

ネットで注文した、ある必要な品が出荷されずに止まる

先月の下旬、日常使っていたある機器が、部品が割れるなどして盛大に壊れてしまい(経年の劣化でしょうけれども突然に)、なくては困る物だったので、大手サイトでその品を注文しました。

そこは何年も前からたまに買い物に利用していたオンラインショップで、在庫がありました。
実店舗では取り寄せになる品だったので、ネットで在庫のあるところへ注文する方が早かったのです。

表示されている到着日も確認し、普段なら日時指定をしない形だと準備ができ次第、最短日で送ってもらえるため、今回もそのようにしました。
この時点では、私は選びませんでしたが、その品の「翌日配達」すら可能という表示になっていました。
注文手続きをし、料金を払い、ここまではいつもと一緒です。

ところが、入金確認のメールと、商品を確保したという連絡が来たっきり、出荷の連絡が来ないのです。
注文した品の進行状況を見ると、そこで止まってしまっています。
注文完了のメールに記載されていた窓口へ問い合わせしてみましたが、回答も来ないので、何か起こっているのかな?と思ってサイトを見ると、商品のお届けまでに時間がかかっているという旨は書いてありました。状況の詳細や、復旧の目安はありませんでした。

注文した品が日常に必要でなければよかったのですが、ないと困ってしまう物で、最初は、「あとは発送だけになっているから、数日経てば送られてくるだろう」と、そのまま待つことにしたのです。

ところが全く動きがないので、今度は電話で状況を尋ねてみることにしました。
すると、出荷の作業に混乱が起きているということで、一体いつ発送できるかはわからないと伝えられました。大体の見通しは?と聞いても、それも現状わからないと。

この時点でキャンセルして他社で買い直すことももちろん検討しましたが、商品がすでに確保されているということや、さすがに1ヶ月以上も届かないということはないだろうということなど総合して、「むしろ自分の手元に今ある壊れた品を、新品が届くまで何とかできないか」と考えました。
また、出荷状況を日々やきもきしながら確認することも、馬鹿らしく思えていたのです。

そこで、壊れた品の割れた部品など一応捨てていなかったので、DIY的に家にあるもので何とか使えるところまで復元しました(笑)
長期の使用に耐えるかは疑問ですが(案外耐えたりして)、しばらくはこれでオッケー!

そうしてさらに日数が経過した後、やっと、お店からの「注文者への配達遅延をお知らせするメール」が届きました。今週に入ってからのことです。
個人的には、そのときまで全く何も知らせが来なかったことが、今回一番気になるところではありました。大手企業なのにそれも手が回らないほど、もしかしたら内部に機能していない面があるのかなと。
さらにメールには、お詫びの言葉ともに、「ええっ!」と思わず驚いてしまう発表が。
なんでも、私より後の日にちに注文した人たちの分はすでに順次出荷されているが、私の注文した期間の商品は、まだ作業停止状態にあり、復旧のめどは経っていないということ。

あらまぁ、と思いましたが、もはや内心、応援する気持ちしか湧きませんでした。
おそらく、現場で働いている人たちは大変でしょうと思ったからです。

全然違う職種の会社で私も、「入ってみたらとんでもない状況になっていて、しょっぱなから沢山のお客様に連絡して毎日謝り続けた」経験もあったので、想像してしまいました。
これは、今回の件に合致するかどうかは別とした余談ですが、会社など組織のシステムって不思議なもので、個人ならとっくに何か起きてだめになってるよという驚くような実態が、機能不全なまま、それでも維持されていることがありますよね。

キャンセルしないと決めたときからgo with you、気長に待つつもりでした。
そして今日には出荷の連絡が入っていたので、無事届く日も多分そう遠くはないでしょう。

ここまでが、出来事そのもののお話です。

もっと速く!もっと良く!もっと期待に応えよう!それが動機になるとき、自分の感覚からズレていないか。

それで思い出したのは、今回私が経験したケースと実際の問題点は異なるかもしれませんが、しばらく前にニュースになったAmazonの配送についてです。
Amazonの配送で、配送業者に負担がかかっていることが明らかになり、話題になりました。

私は速さを重視する当日配達や翌日配達というのは利用したことがないのですが、その発想と実現自体は、すごいものがありますよね。
その便利さ、恩恵にあずかっている人もいるでしょうし、サービスそのものの価値を論じたいわけではありません。

そうではなくて、私が今回の出来事からインスピレーションを得て思いを馳せたのは、「無理をしているのに、それを隠してまで良いサービスを提供したい」というのはアンバランスで、いつか崩壊してしまうということです。

その「無理」や「疲弊」が自然になくなっていくことはなく、やがて構造の見直しをせざるをえない出来事や状況に導かれるでしょう。
これは会社や組織だけじゃなくて、個人の仕事や人生、生活においてもそうです。

そのような「無理をすること」の奥には、結果はどうであれ、見方によっては必ず、ある種の「善意」と呼べるものがあると言えます。
他社との競争や、売上の事情がやむをえず絡んでくる場合のビジネスであっても、それは同様でしょう。

想定しているニーズや期待に応えるつもりであったり、相手を喜ばせたい気持ちであったり、思いやり向上心といったような、「もっと良くしよう」という考えが発端にはあるのです。

でもそれは、内から湧いてくる叡知とは異なります。
そのことを、個人にフォーカスしてお話しします。

自己の感覚を無視すると、熱意も仇となる。

たとえば、あなたが「こうした方が相手が喜ぶんじゃないか」「このように期待されているから、応えたい」などの動機で何かをするとき、自分の内側にある気持ちや感覚に、よく気をつける必要があります。

もし、本当は「ちょっと負担」、「気が進まない」、「無理をしている」などと感じるなら、それは意味があってのことなのです。
内なる自己は「相手をも含む全的な状況を知っている上で」その感覚を起こしています。

あなたとしては、これまで学習した観念や善悪やマナーに基づき、思いやり、向上心、諸々の「善意の」理由で、無理を押してでも「相手のために」何かしようと考えるのですが、それは必要ない、あるいは余計であると、あなたの内側は知らせることがあるのです。

けれども、その感覚に従うことの方を「エゴだ、自己中心的だ」と考えて、自己犠牲的な観念に基づき、頑張ろうとすることはないでしょうか。
あたかも「自分が無理すれば、そしてその無理を隠していれば、みんながハッピーになれる」と言わんばかりの観念があるのです。

この観念のおかしさに気づいてください。
一見そのつもりはなくても、自身の内側をよく見ていくと、実は同種の観念に基づいて動いていたことがわかって、驚くこともあります。

そういった「無理をすることを前提とした姿勢」「根本を考え違いした熱意、頑張り」は、既述のようにやがて何らかの形で爆発したり、崩壊したり、行き詰ったりします。
それは、あなた自身が「状況や出来事を使って」そうするのです。
自己内にある構造を改める必要があるということを、自分で劇的に認識するために。

今のやり方はアンバランスだとか、自分に負担をかけているとかの、内側ではとっくに感じていたことを、何とかして自分自身に明確にわからせようとします。
それはもっと穏やかに始まっていたのですが、無視をすればするほど「ドラマチックな改編」が必要になります。

あなたを引き止める「情」は、愛ではない

こうした「無理をしてでも」の気持ちの根本にある「熱」のようなものは、いわゆる「情」と呼べることがあります。
見出しにぎょっとした人もいるかもしれませんが、それほどにこのテーマは人間世界に根深いものでしょう。

あなた自身がすでに負担を感じていたり、無理をして維持しているとわかっていたりすることは、いかにその動機が「他者のため」「他者への情」に基づくように見えても、その奥に「自分自身の見捨てられ不安」のようなものがあります。

それは巧みに「他者のため」という形に擬態していますが、「あなた自身の自己価値」に起因するものなのです。

ここまでやらないと、がっかりされるのでは。
喜んでもらえないのでは。
嫌われてしまうのでは。
世間に見捨てられるのでは。

あなたが、本当に思うままのあなたで生きられるとは、自分で思っていないのです。
自分を困らせず、自己犠牲もしないで、この世に存在していてもいいのだとは、思えていないのです。

自分にはそんな価値はなく、どこか無理をしたり、つらい思いをしていなければ、生きていてはいけないと感じていたりします。
大げさに言えば、何か負い目や負担や試練を背負うことに「義務」を感じてしまうのです。

それを「人間とはそういうものなんだ」と信じている方もいるでしょう。
「人生とはそういうものなんだよ」バージョンもあるでしょう(笑)

それにハッと気がついたとき、あなたは「もうそんな観念を解放できるとき」なのです。

あなたが人生をどう捉えていて、自分についてどう思っているかは、あなた自身の現実に影響します。逆に言えば、あなたが心から信じていないことは、あなたの現実に影響しません。

ですから、他者に対する「情」や「熱意」を中心に動いている自覚があるとき本当は自分が何をしようとしているのかを、よく見つめてください。

たとえば内心、自分はこうしたいと感じることがあるのに、他者に引き止められるように感じたり、「情」によって考えを変えたり、何か別のことをしなければならないと思い込むとき、それは愛ではありません。
ただ単にそういう形を借りて、「自身の恐怖」を見ないようにしているだけです。

そこにあるのは、「自分の人生を、自分の思う通りに歩むことへの恐怖」です。
私には、それは価しないのでは?やろうとしてもそんな力はないのでは(失敗したり後悔するのでは)?と疑っているからです。

そう信じているときには、外部の「言い訳」が必要になります。
誰かがそうさせないという形、人のためにこうしているんだという言い訳は、甘い毒薬です。
自分自身に直面するよりは怖くない、その構造と考え方を、いつまでも想定上の「他者という自分で創った影」に原因があるとしてズルズルと保つからです。

そう信じていると、その影(他者)はあたかも自分とは別に存在しているかのように、現実に体験できるため、その思考への依存は悪循環になりやすいのです。

自覚を持つことで、そこから抜けられます。
私たちは、それぞれが自身の「現実」を創り続け、創造そのものを止めることはできません。
変えられるのは、自分の創っている現実の種類です。
「自分の思うように生きられない夢」を自分で創り続けるのは、もう終わりにしましょう。


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