今回は、「エゴの観点の自己愛から抜けよう」です。
ここで言うエゴとは、「分離を信じている自我」を指します。
自己愛そのものを否定する意図の記事ではなく、「分離を信じている自我が思う、自己愛」から抜けようというお話です。
なぜなら、それは幻想に基づいており、愛と言いながら、あなた自身を苦しめるからです。
あなたが見ている、その人はだーぁれ?
わざわざ「自己愛」というとき、私たちはおのずと「自分ではないもの」の存在として、他者を想定しています。
だからこそ、「自分に向ける愛」、「他に向ける愛」という区別があります。
全部が自分という認識だったら、自己愛という言葉はなく、ただ「愛」になるでしょう。
あなたがエゴの考えと同一化しているとき、外に見えているものは「自分以外の何か」なので、そことの関係性があなたの死活問題になります。
外に見えている自分以外の何者かから「愛をもらわなければ」、「攻撃されないようにしなければ」、「認めてもらわなければ」など、その思いのヴァリエーションは様々ですが、根本的に「分離を信じている観念からの、思いや感情」が派生します。
欲望というのもそうです。
そうして自分を守るためや、自分の価値を確立するために色々なことをしなければなりません。
たとえ行為として表現していなくても、心の中で、そのための思いが活発です。
そのように囚われて生きていると、とても苦しいので、
他者から愛をもらおうとしないで、自分で自分を愛しましょう!
と、スピリチュアル分野やセラピーの教えではまず、自己愛を育てることを奨励するかもしれません。
しかし、そうはいっても、「自分から分離している他者」が存在するという観点からの自己愛は偽物なのです。
ベースが錯覚なので、その自己愛は相変わらず、あなたを苦しめるでしょう。
◆「スピリットから見た人間関係」に出てくださった方は、内容を思い出してください!
これから受講される予定の方は、一緒に学ぶ機会を、どうぞお楽しみに。
自分を満たさなければ、他者を愛せない。
これは、分離を前提とした世界では、事実です。
けれども、あなたが「私とは何か」という真の自己に目覚めるならば、その考えすらも幻想だとわかってしまいます。
あなたの外に敵はいません。
あなたの外に脅威はありません。
あなたが「元に戻す(解除する)」必要があるのは、自分の外に何かがあるという錯覚です。
あなたが外に見ている、その人はだーぁれ?
答えるべき疑問はこれだけです。
愛にまつわるエゴのドラマと、自己愛
このように自己愛にまつわる観念が解かれると、人間が「愛」と呼んでいるものの多くが、エゴによってどのように歪められ、利用されているかが明らかになります。
初開催だった4月の◆「スピリットから見た人間関係」のクラスでは、ご家族やお仕事での人間関係にまつわるシェアリングが受講者の方々からありましたが、恋愛や夫婦関係の具体的話題はありませんでした。
けれどももちろん、それらもこのテーマに入り、見つめると大変面白いトピックです。
どんな関係性も、それ自体に善悪や、正しい・正しくないという属性はありませんが、
あなた自身がそこで何をしているかを直視する必要はあります。
エゴの観点での自己愛を増長させるために、他者との関係を使うなら、あなたは自分を檻の中に閉じ込めています。
他者を、偽りの自己愛の道具にしてはいませんか。
自己憐憫や、自己を愛し他者を憎む(自分は正しく、相手は間違っている)心の働き、あるいは相手が自分を良く思ってくれることや、自分の期待に応えてくれることで自己に価値があるのだと確認すること(その逆になったときには、相手に失望すること)、
……エゴのご用意しているメニューは多彩にございます!(笑)
そのどれもが、他者に何かを求めているようで、思いそのものが生まれる根本を見ずに隠しています。
エゴは求めますが、その観点からは絶対に、本当の意味で得ることがありません。
そんなレースに乗り出していると気づいたときには、果たして、レースに「勝つこと」がゴールでしょうか。
いえ、幻想のレースだと気づいたら、その舞台から降りることが解決です。
これは決して、物理的な行為を指して言っているのではありません。
あなたの心の状態について、お話ししています。
形だけ、ある関係を断ったり、争いから抜けたりしてみせても、心の中で何をしているかが重要です。
正直にそれを見てください。
それこそが、効力を持つからです。
真実の愛を知っているもの
エゴの観点の自己愛を抜きにして他者と関わるとは、どういうことか……
知っている者が、あなたの内に存在します。
ですから、あなたがそう望めば「思い出すこと」ができます。
間違えないでくださいね、それは、人間の愛のレースの中で賞をおさめがちな「自己犠牲」とは関係ありません。
自己犠牲はまさに、「エゴの観点の中で崇められているシリーズ」です!
あなたの中にまだ、エゴの観点を信じる気持ちがあるときには、そこからリアルに見える色々なトラップに引っかかります。愛すらも格好の材料になります。
その上、自分の経験したことを真実と見なすので、エゴの観点に燃料を投入して維持するというサイクルが断たれません。
別のものを見るためには、あなたの内で、エゴの観点にエネルギーを供給するのをやめる必要があるのです。
同じであること
2019年が明けてひと月経った2月に、こんな記事を書きました。
◆「『らしさ』とは何か~部分からWHOLE(全体)へ~」
個性を重んじることは、これまでの時代の主要な流れだったように感じます。
ひとりひとりを尊重するという意味でそれは大切な流れでしたが、私が今、お伝えしたいのは「愛のもとでは皆同じ」ということなのです。
エゴの観点に基づく自己愛に執着していると、このことがわかりません。
というより、認めたくないのです。
「特別であること」を求めているからです。
(逆説的ですが、あなたがただあなたであるとき、あなたは努力しなくとも唯一無二の存在だとわかります。けれどもそれは、他との差別性を意味しません。)
特別な私と、特別なあなたに執着すると、どうなると思いますか。
たとえば恋愛などの「お互いしか目に入らない」という関係性は、本当に理想でしょうか。
それは病や執着の一形態と呼べるのではないでしょうか(!笑)
特別な相手への独占欲というのは、どうでしょう。
これも、エゴの観点では、求めているものの本質を巧みにすり替えているんですよ。
愛の形態にもルールが定められ、現代では一対一の特別な相手というのが浸透しがちです。国や文化によっても異なりますが。
ひとりとひとりの間でできないことは、多数の間においてもできないという意味では、一対一の親密な関係性から深く学ぶという意義はわかります。
けれども、形として、こうである必要がある!と縛るのは、ただの制限です。
自分が感じている不足を補うために、さらに別の「特別な相手」を求め、ひかれるというのは、エゴの舞台ではよくあることです。
ここで言及しているのはそういう「根本が同じ別形態」を推奨するお話ではありません。
私たちが皆同じであるという認識に戻るとき、あなたの愛には、制限がなくなります。
愛の平等性に気づくのです。
あなたのそのときどきの「今」という立ち位置から、各人との関わり方にこそ違いは生まれても、愛そのものの流れは遮られることがありません。
愛とは元来、そういうものだからです。
真の自己に目覚め始めると、エゴのアピールする様々な観念が明らかに嘘だなぁ!と気づくことも特徴ですよ。
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