バラの花があちこちできれいですー!
ツバメちゃんも、もう青空を飛んでいて。
本日の東京、私のいる方では、引き続き空気は冷たいけれども「5月の美しい日」を実感する景色に恵まれていました。
緑がキラキラときれいで、バラが咲き乱れると、「ここって極楽!?」感が増します。
どんなお花もきれいだけど、私にとってバラは特別。
バラの花を眺めていると、心に羽根が生える感じがしませんか?
こちらは少し前に載せた実家に咲いていた薔薇の別ショット。
色んな色、形のバラがあって、香りもいいものがある……バラの世界は大好きで、振り返るとけっこうバラ園とかバラの庭があるお店とかには足を運ぶことが多かったです。
切り花になっているバラよりも、生垣のように、土から生えているバラが好きなので、バラでいっぱいの庭というのは憧れ。
植物を育てることが得意な方々は、私にとって素晴らしく尊敬する存在です。
今のところ、ガーデニングには心が向いていないけれど、バラのある風景は内側にヴィジョンとしてあり続けています。
こういう夢って、「絶対にそうなってほしい!」、「実現させるぞ!」と力んでいるものではなく、ふんわりと心にあるもので、自分の内にあることはわかっていても「夢と呼ぶほどではないな」と思っていらっしゃる方もきっといますよね。
現実として具体的に描こうとすると、あやふやになるとか。
私も、バラが好きであると同時に熱帯植物も好きなので、「この現実での暮らしバージョン」にそれを落とし込もうとすると、どんな方向性なんだかわからなくなります(笑)
でも、あなたの内側にある好みや、幸せを感じられるヴィジョンは、
「それがどのようにこの世界で形になるか」
理解できなくても、大切なエッセンスなんですよ。
私たちは誰もが自分の現実の創造者で、あなたの内にあるのは「現実として結実するものの種(たね)」だからです。
今回は、「現実という創作」がテーマのお話です。
この現実が、すでに創作
前回の記事◆「ガイドさんの絵のご紹介~ご依頼者ふきのとう様~」の最後の方で、
『ここ最近は、創作という概念そのものについて色々思うところあり、……』と書きました。
そこに思いを馳せた直接のきっかけは、「ガイドさんの絵とメッセージ」を始めたことですが、
◆「ガイドさんの絵とメッセージご案内」
遡るとかなり昔からもう始まっていた私自身の変化が、ここにきて、動かし難いものであると気づいたのです。
それは、一般的に言うところの「フィクション」の創作に心が向かなくなったことです。
創作という概念に対する、私の見解の変化
私はかつては自分の想像によるストーリーを書くこと、それに沿って絵や漫画を描くことが、かなり好きでした。幼少期から学生時代は、そういう創作が大好きだったのです。
ですから、いずれ自分の気持ちが向くことがあれば、また何か創作活動をするのではないかと、可能性として考えていた部分が心のどこかに残っていました。
その一方で、度々記事に書いているように、小説や映画等を含むフィクション作品を面白いと思わなくなった、関心が持てなくなった、ということは自覚していました。
最近ではこちらの記事で、そのことにふれました。
◆「地球に抱かれたい」
はっきり言って、フィクションを楽しめなくなる変化は、スピリチュアリティーの目覚め、「存在」としての自己のアイデンティティーを取り戻すのと同時に起こったのです。
それ以降、長年ずっと元に戻ることがありません。
これは私の場合は、ということで、霊的に目覚めるとどんな人にもそれが起こるというわけではありません。その必要もありません。
ただ、なぜそうなったかという部分に関しては、普遍的な意義を含むので、シェアすることに価値があると思っています。
それは、「この現実がすでに自分の創作である」と自覚していることが根本にあります。
存在としての自己の創作である「この世界」の中で、さらに創作することは、二次創作、三次創作……という風に、「創作の中でのさらなる創作」という感覚になります。
たとえるなら、映画の作品内の世界で上映されている映画であるとか、小説の中の登場人物が書いている小説、というようなものです。
まず、この説明を心に留めておいてください。
想像って、何だか知ってる?
さて、この記事を読んでくださっている方々は、どなたも私に代わって私の人生を歩んだことがあるわけではないので、驚きがいまいち伝わりづらいかもしれませんが、
私にとって、想像のストーリーを作ったり、それを絵に描いたりということに、こうも興味がなくなるのは、過去の自分を知っているからこそ、大きな衝撃ではありました。
でも、それは「創造という行為」や、「自分の内にある何かを表現する活動」に対して関心を失うこととは、違っていたのです。
現に、私はこうして自発的にブログ記事を書いていますし、「ガイドさんの絵とメッセージ」をはじめ、絵でも描きます。その情熱はあるのです。
では、何が違うのでしょうか。
私にとって、自分の内にあるものを「そのままの純度を保って、形にすること」には変わらぬ意欲を持っているのです。
んー、その「内にあるもの」がこの現実にないものならば、それがフィクションの創作になるんじゃない?
と、思った方はいますか。
その通りです。
かつて、こうしたスピリチュアルなことに理解を持っていなかった私からすれば、ガイドさんの姿や夢の中で出会った存在たちを描くにしても、「自分の想像から生まれたキャラクター」と思っていたことでしょう。
架空の、自分のオリジナルキャラなんだ!と解釈していたであろうということです。
でも、今の私は、物質的世界でない、いわゆる「見えない次元」、「非物質的次元」、「人間が空想だと思っている世界」が存在していることを認識しています。
言い換えれば、あなたが空想だと思っている世界も、何らかの形で存在しているんです。
昔なら想像と思って創作していた、大元は同じアクセスを用いる活動が、もはや私には「実際にあるものを見て描写する」、写実的な行為に変化してしまったということです。
アイディアは創るものではない、認識するもの。ただし表現は個々人の範疇にある。
私たちが、あたかも自分で生み出していると思っているアイディアは、ある次元にすでに存在しています。
私たちにできるのは、そこにアクセスしアイディアを認識すること、選択すること、そして「自分を通して、ここで」それを表現することです。
たとえば、「このアイディアは自分が先に発見した!」と争いになるケースが世の中にはありますが、どちらかが嘘をついているわけではない場合、それぞれが独自に、同一のアイディアにアクセスして、表現をしたということです。
表現が大きく異なれば、同じものに見えないかもしれませんが、似通っていると、どちらかが真似したように見えてもおかしくありません。
このように理解すると、真の意味で「誰かの唯一のアイディア」、「自分だけのアイディア」と呼べるものは存在しないのです。
ただし、ある情報をどう表現するかという部分は、個人個人にゆだねられています。
それこそが、この次元における私たちのオリジナリティーが発揮される箇所です。
繰り返しますが、その表現によっては、元を同じとするアイディアも、全く異なるものになり得るということです。
実際、別の人によって表現されれば、ここでは、それは別のものになるのです。
つまり、創造とは、選択したアイディアを自分でどのように表現するか、どうこの現実で形にするかという行為です。
もし、自分の中にはたくさんのアイディアがある!と心の中で認識するだけなら、それは誰もに共通です。
あなたの認識したアイディアを、あなたを通して表現するところまで実行すると、この現実における「創造」になります。表現の方法は無数にあります。
ダイレクトな創作、それは自分の現実を創ること
こうしたことをお話しした後に、私の最近の気づきへと話を戻すと、私は、いかに自己の内側の世界を、纏うものなくこの現実へ反映させるかに関心があるとわかったのでした。
私自身の感じていることをなるべく装飾したり、大げさにしたり、違った形にアレンジしたりしないで、そのままの純度でアウトプットするということです。
「今」の自分以外の別のキャラクターになりたいとか、何かに自己を投影するとか、身代わりを創作したいとかの望みもありません。
現在の自己という中心点をフル活用し、そこからぶれないと言えばいいでしょうか。
ですから、こうした文章で自分の考えを語ることは「やりたいこと」になります。
対象が物理的に見えないものであっても、自分の見たり感じたりしたままに絵を描くことも、私の好みに沿っている表現方法です。
私はかつて、ノンフィクションやルポタージュというのは、自分と無縁の世界、何かを書くにしても私自身の好みから最も遠い分野だと思っていました。
ところが蓋を開けてみると、いつの間にかそちらの方が自分の行っていることや好みに本質的に近いと感じられるようになり、それが面白くもあるのです。
この現実において、存在としての自己から見た二次創作、三次創作となってゆくフィクションのストーリーを生み出すよりも、今の私は「自分の経験する世界(現実)」という創作の方にこそ興味があり、それをつぶさに観察し、完成させていくことにやり甲斐を感じます。
自己との間に階層を挟まず、よりダイレクトに、直通で表現できることが望ましいのです。
これは、先にも説明した通り、私の場合はこうであるというだけで、万人におすすめしているあり方なわけではありません。
ただ、クリエイターが作品を創作するように「この現実もあなた自身の創作なんだよ」と自覚していただくと、あなたが作品を描いているキャンバスはここそのもの、あなたの創っている映画とはあなたの人生であることがわかると思います。
その面白さは、この世界で見られるどんな創作活動にも劣らないと感じるのですが、いかがでしょうか。
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