BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

メッセージ性を好まないということ

今回は、「メッセージ性を好まないということ」について語ります。

これまでブログを読んでくださった方の中には、意外に思う方もいるかもしれませんが(その逆に、そうだろうなと納得する方もまた、いるかもしれませんが)、

私はメッセージ性を意図したものがあまり好きではありません。

ブログで、「今回のメッセージは…」という書き方をすることがあっても、それは、「有益なメッセージですよ」という意味の「メッセージ」ではなく、あくまで私がインスピレーションとして受け取ったもの、書きたくなった概念を伝達するという意味での「メッセージ」です。

読んだ人にとってそれがどうであるか、何の意味を持つかはわからないし、人によってはただの「たわ言」だ、という感想で終わることもあり得るでしょう。
少なくとも自分自身はたわ言だとは思っていないので、「今日のたわ言は…」とは書きませんが(笑)


一方で、芸術作品には「メッセージ性」がつきものだと感じている人もいます。

たとえばある画家の作品が、
「この影と、○○のたたずまい、そして△△が現実より大きく描かれていることには、こんな意味がこめられているんですね!」
と、批評・感心されて、
「いや、そのどれも私は意図していないんですけど…。筆が進むままにそうしただけですよ。自分でも気がつきませんでした。」とか、
「ただ面白かったからそのように描いただけです。」
ということがあってもおかしくないと思うし、実際よくあるだろうと私は思います。

私の好きなアメリカのヒップホップの、ラップ音楽の中でもときどき、
「メッセージ性の有無」
が話題に上るのを見かけることがあります。

○○のラップのlyrics(詞)にはメッセージ性がない、というように批判的に言われることもあって、確かにラップの中には強いメッセージ性を持つものがあり、そういう作品を好む人もいるし、それこそが「ヒップホップ」のあり方だと考えている人もいるかもしれません。

ですが、私は逆に、昔からメッセージ性の強いラップがあまり好きではありません。
例外はありますが、傾向として、どちらかというと好まない。

メッセージ性のある・なしを基準に作品の「優劣」や「価値」を判断する考え方は、かえってヒップホップが含有している自由さを規制することになると私は思います。

あくまで自分の過去の経験上の話になりますが、メッセージ性の強いラップや、一般的に「芸術性が高い」と認められているラップを好む人が「これは素晴らしい!」と認める傾向のものは、私はいくら聞いてみてもおおよそ好きでなく、
逆に、私がとても好んでいるラッパーやグループを、そのタイプの人たちは敬遠しがち、ということが見て取れました。

そして、それは明らかにクオリティーや優劣ではなく、個性やスタイル、好みの問題だと感じていました。


音楽に限らずそうなのですが、私は、
「これが善だと思ってアピールしてくる善」
のようなものが苦手なんです。

スピリチュアル系の表現でも、当たり前のように「この光を皆さまに…」みたいなことが書いてあると、※
「なんで、それが万人にとって“光”と決められるの?」
と、微妙な気持ちになるタイプです。
(※特定の誰かのことではなく、スピリチュアル系ではよくそんな表現が使われるな…というイメージで書いています。)
もちろん書いている人の善意はわかるので、批判の思いは湧きませんが、自分には違和感があって同意できないということです。

こういった感覚を、有名なアーティストへの好みで示すと…例に挙げたら若干わかりやすいかなと思うのであえて挙げてみますが、

ビヨンセデスチャ時代から作品を聞いてみたり、その後の曲や映像を見てみたりしても私はずっと苦手で、良さがわからず、
それに対して、デビューしてしばらくは妹分のように比較されがちだったリアーナのことは、好きです。

この2人のタイプの違い、わかる人にはわかるでしょうか?

もちろんファンの人には異論があるでしょうが、ビヨンセのどこか優等生的な、
「これが素晴らしいでしょ?」
という「正しさ」のような雰囲気が苦手なのです。
(もちろん個人としてはどんな人か知らないので、あくまでパフォーマンスや作品、表現において、という話。)
たとえ何かを「外した」表現をしたとしても、「ビヨンセでも、こうなんだ」みたいな前提で狙っている感じが漂うというか。
見事さとか、素晴らしさの概念を押しつけられている感じというか。
どうも私自身の感性にはしっくりこないのです。

一方で、リアーナは「お騒がせセレブ」的な扱いを受けたりもしていますが、私からすると、「自分を生きようとしている人だな」とか「素直な人だな」と感じさせる何かがあり、スターであっても自分のいる場所から「表現したいものを表現したい!」という熱が生きているなと思います。

この2人の比較は、私が説明しようとしていることの雰囲気をあらわすのにちょうどよかったので使ってみました。


私にとって、「生きていることや存在そのものが、自然と何かを表現している」という人が好きで、それは本来、誰もがそうなのだと思うのです。

だから、あえて「明確なメッセージ」を前面に出さなくても、その人の何かが表れてしまう、伝わってしまう、そんなさりげなさ、そして逆に強烈さがある方が私は好きなのです。

言葉じゃなくても、語っている。
その人が生きているだけで、何かを見せている。

“崇高な”メッセージにはしない、声高に人を啓発したりもしない、
それでも…人々は、その人から何かを感じることができる。

そんなあり方が好みです。


もちろん、メッセージ性の強い作品を作ることやそういう表現を好むこと、こちらもまた個性なのですから、そのスタイルを否定する意図はありません。
ただ、どちらかが高尚であるとか、「良い・悪い」みたいな価値判断が出ることには異論があるよということです。
そういう前提って、それこそ「言葉にはしなくても」、空気のように存在することがあるじゃないですか?あたかも、当たり前の合意のように。

先の例よりももっと「なんで?」という反応を受けそうな気がするのですが、たとえば私は「TED」※の雰囲気も苦手です。
※アメリカのNYに本部があり、講演会を主宰している団体。色々な分野の人がプレゼンしている様子を動画で無料配信している。

有益な情報を発信していたり、実際に人々を啓発していたりするのでしょうが、なぜかどうしてもあの感じが好きではありません。

この違和感を分析すると、これまた「良い(役に立つ)情報をシェアしている」という前提を共有していそうな感じが、苦手なのかもしれません。
あるいは個人の感覚なので、単に合う・合わないに終始して、「好きじゃない!」というのが正解かもしれませんね(笑)


何のメッセージや意図もなさそうに、お酒を飲みながらどこかのおじちゃんがふと語った言葉とか…
どこかのおばさんが、得意の手工芸をやりながら、手を動かしつつしゃべっていたこととか…
予測しなかったところできらりと光る瞬間というか、日常の中で各々の存在に宿っている叡智が滲み出ることがあって、

現代文明では評価されていないところや、人々の目が逸れているところにも、色々な「メッセージ」が地球上にはひしめいていると思うのですね。

それは「思い込みの色眼鏡」を外さないと見逃してしまうこともある。

だからときどき私は、スポットライトを当てる場所はそこだけじゃない!という気持ちが湧き上がってくるんでしょうね。

 

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