私たちが、さまざまなものの「そうなっている事情」に注目するとき、
「背後にある理由」にフォーカスするとき、
私たちは、複雑なものを見ることになります。
たくさんのものが絡み合い、
「全体」を見渡していない目線が、うっかりその一部だけをとらえると、
まるで理不尽なものを目にしたかのように思えることもあります。
でも、そう思い込む前に、ちょっとストップ!
そのとき、思い出すべきことは、
自分の狭い目線、狭い理解で、
何かを「ジャッジ(判断、裁くこと)」することはできないのだということ。
その意味で、情報と離れておく距離…スペースは大切です。
私は、すべてを知っているわけではない。
全部を見たわけではないんだ。
だから私は、それをいかなる形としても、決めつけることはできない。
その一方で、根本理由はとっても単純です。
なぜ、私はそれを見た?
なぜ、私はそれを体験した?
私がそれをやりたかったから!
私がそう望んだから!
私がそれをオーダーして、
私が自分で決定したから!!
ここには、シンプルな答えしかありません。
私が体験することを選んだもの以外、
私は体験できないからです。
だから、実際にできることもとてもシンプルです。
どんな複雑な事情があるようでも、
どんな背後の理由が関係しているように見えても、
もし、それが自分にフィットしなければ、
何かずれているような歪みを感じたら、
自分の力を思い出し、
自分の中にある「種」を手放せばいいのです。
見えている現実は、心の中にある種から育っていますから。
そのときに欠かせない土台となるのは、
百%、「これは私の選んだ体験だ」
と、知っていることです。
そのことを受け入れていなければ、
形だけ「手放します!」と宣言しても、効果がありません。
本当は納得していないよ…こんなこと、腑に落ちないよ…
そうつぶやいている膠着状態のときには、まだ怖れがあります。
自分のどうにもできないところで、何かが勝手に起こっている。
これは押し付けられている。私は望んでない。
自分は被害者だ!という思いです。
そういうとき、ヘタに「なんとかしよう」とするよりも、
自分の、そんな状態もそのまま受け入れる方がいいのです。
ありのままの姿を、じっと観察する方がいいのです。
あなたの中から何が出てきても、よく見てください。
以前はそれが、あなたの役に立っていたのかもしれません。
何らかの形で、あなたを助けてくれていたのかもしれません。
急いだり、無理に結論づけたり、
そんな自分を悲観したりする必要はありません。
心がまだ、「なるものか!」と、思っていて、
納得せずに服の裾をつかんでいるのなら、それも愛でればいい。
自らの内にわざわざ反対の力を作るのをやめて、
出たがっているものの表現をゆるして、流れを見守るのです。
だってあなたはもう、そこに気づいているのですから。
そうこうしているうちに、もしかすると、
噛めば噛むほど味がでるスルメでしたか!?というくらい(笑)、
自分が何度も何度も同じものを噛みしめていたことに気づき、
そこにわだかまりや痛み、怒りや悲しみなどの溜め込んだ感情、
抑えつけられていた、スッキリしないものが残っていたことが、
発見できるかもしれません。
(↑※私はときどき、夢の次元で、
すでに亡くなったらしい人の思いや感情を「受信」する経験がありましたが、
これはただ単に、「受信する(その人の気持ちをそのまま受け取り、同じ感情を共有する)」だけで終わるのでした。
そういうとき、その人の思いや感情が、ボールになってぽーん!と、
私の胸に飛び込んでくるのです。
私は、その人と同じものを一緒に体験し、共感するだけでした。
それ以外に何もしなくても、それは受け入れることで、流れるのです。)
自分に力があることを、信じられますか。
根底に、やるせない無力感はありませんか?
望んでいないことを自分に強制できる、
何か別の力があるのだと思っていませんか。
どうぞ思い出して☆
あなたは受け身ではありません。
一方的に押し付けられ、ただ受け身…という考えは、
すでに源の力との、分離を想定しているということなのです。
そうではなく、
私たちは、毎瞬、毎瞬、外の現実に自分を映し出しながら、
フィードバックを受け取り、変化し、生まれ変わり、
即興で作品を創っていくアーティスト。
これを知っていてください。
自分は、どんな体験をしても、被害者ではない。
単なる受け手であるということはありえない。
外の現実は、自分の心で種を蒔いたもののあらわれ(出力結果)であり、
私の選択を無視して起こることなど、ひとつもない。
そうやって今も、これからも、あなたが選んでいるのだから、
その事実を認めれば認めるほど、あなたは力を取り戻すということなんだよ。
色んなものを、柔軟に使いながら、それとダンスしながら、
光源からの輝きを、そのまま放射できるということなんだよ。
私たちには、何か違和感を見つけるたびに、
心の中にフォーカスを向けてみるという選択があります。
心の中をよく眺め、ときに整理整頓をするためには、
中立に、客観的な目で、それを観察しなければならないから、
好きな音楽をききながらでもいい、
居心地のよい部屋で、好きな香りをかぎながらもいい、
思いついたときには、ぜひ時間をとってぼーっとして、
とにかくゆったりリラックスして、自分の心をのぞいてみてください。
深く入っていきながら、心の目で観察します。
大丈夫、あなたはとっくにやり方を知っている。
私は、この間、そうしているときに、
まるで将棋の駒のようでもあり、
麻雀の牌…みたいな形にも見える、
自分の体験をつくる色んな「種」が、
やわかい心のクッションに差し込んであるのが見えました。
(駒の裏にピンみたいなのがあって固定できるようになっている)
その駒のいくつかを点検して、
(ひとつひとつの詳細を見るわけではありませんが、
自分のそのときの体験に連動したものに導かれて、それを見るのです)
もう要らないものを、すっと抜いて、外すことができます。
「ああ、こんな風に思う必要はないなぁ」
「これを別に、信じなくてもいいんだ」
私たちは、起こること、体験することのおかげで、
自分のそのときの反応…感情、感覚、湧いてくる思考を観察することができ、
それによって、自分の心にある「種」に気づくことができます。
あなたは石ころだらけの険しい道を、つまづきながら歩くこともできますが、
石ころそのものをよ~く観察して、それが脅威でないと知るだけで、
それはすっと消えてしまうような幻想…いわば張りぼてであった、
ということなのです。
気づくと、両側に花が咲き乱れる、気持ちのいい小道をのどかに歩いていた…
ということになるかもしれません。
この世界にはたくさんの情報があり、
あたかも、あなたにとっての「トゲ」や、「ひっかける鉤」を持って、
恐ろしげに飛び交っているように見えるものもあります。
あなたがそれに対応した「種」を内に持っている限りは、
ときにそれは、あなたをチクッと刺すことがあるかもしれませんが、
そういうものがあなたにとってもう不必要なのであれば、
チクッと小さく刺さって「痛っ!」と気がついたそのときに、
それをありがたい機会として、にっこり感謝して、
そのときそのとき、落ち着いて心にある「種」を抜きとればいいのです。
「無力感」は、あなたの思っていることの、何かが間違っているしるしです。
自分の体験をどう受け取るか…
自分に力があると信じているか否か…で、現実は実際に変化します。
あなたの意欲があれば、そう決めるだけで、
同じものも、今までとは全く違うものの見方で眺めることができ、
さらに広く、希望に満ちた視点を発見することもできるのです。
私たちが、喧騒の中でも相手の声をキャッチしておしゃべりできるように、
私たちにはいつでも、大切なものに注意を向ける能力があります。
大切なもの…その本質が何であるかは、すでにあなたが知っています。
自分の心で、自分の好きな種を選んでは、
それぞれの種に、水をやる量も決めているのだということ。
庭園を、楽しみながら形作っている幸福な庭師は、あなたです。
☆スピリチュアルカウンセリング☆