しばらく前に、◆「体脱や夢を眺めるときの留意点☆」という記事を書きました。
その頃くらいから、妙に「体外離脱」の情報が、
私の日常生活にちらほらとやってくることに気づきました。
上の記事で書いたように、もともと私は「体外離脱を教えている人やその情報」に、
ずいぶん縁がある方だったのですが、自分では、
あえて体外離脱に情熱を燃やさなくてもいいか!
という感じで、ぜんぜん熱心にはなれなかったのです。
自分の関心がゼロというわけでは決してないんだけど、
自然に起こるときには面白い体験であるものの、
訓練して開発してまで、体外離脱の世界を極めようとは思わなかったのです。
ところが、人生の中でこの情報(体外離脱の情報)、定期的にやってくる。
ふーむ。
もう少し、意識的に体外離脱の練習をした方がよいということ?
(以前も書きましたが、最近は明晰夢がときどきある程度。)
そう、自分自身の心に尋ねてみたのですが、
相変わらずモチベーションはあまり湧かないのです。
そうこうするうちに日が経って、
あるときピン!とインスピレーションが降りてきました。
「そっか。私にとっては、この現実を体外離脱の現実にしなさい、
という意味だったんだ。」
よりわかりやすく説明すると、夢の世界と現実の世界の融合です。
(眠っている間の夢も「体外離脱」であるということについては、
先に紹介した記事を参照してくださいね☆)
☆☆☆
古い記事もご覧くださった方の記憶に残っていたらうれしいのですが、
私は、眠っている間に体験する「夢の世界」と、そこでの活動を愛していて、
夢の世界での自分のようになれたらいいなぁ、とよく思っていました。
どうしたらあっちの世界の自分のようになれるんだろう?
と、真剣に考えたものです。
でもそれは具体的な職業や行為というより、「在り方」の問題だったために、
より、どうしたらいいかが、雲をつかむような感覚でした。
それが長年をかけてだんだん統合されてきて、
「あっちの世界」と「こっちの世界」の自分のギャップは、
だんだん縮まってきているように感じていました。
「自分の意識の在り方」のギャップが縮まってきたときに、
今度は気づいたことは、「この世界の見方」です。
夢については、当然のように
「自分がつくっている世界である」
「自分は夢主である」
と認識しているのですが、
こちらの現実になるとやはり、
「他者は他者であり、外の状況は状況であり…」
という見方がゼロになっていない。
ぜんぶが自分の意識の中にある
ということが保ちきれていないのでした。
今回、「体外離脱」というキーワードで私に促されていたのは、
起きている間も、夢主の視点に立つということだったのです。
この現実を体験しながらも、夢主の視点に切り替えると、
すべての現状をそのまま
(楽しいことばかりじゃなくつらいことや苦しいことがあっても)
これは、自分の中にある、いつか終わる愛しい夢であると、実感できます。
私は、「この人生の記憶の持ち主の視点」であり、
この世界まるごとが、「私の世界」であると認識できます。
その「愛しさ」から見ると、人生の中の何もかもに区別なく、
「私の世界に、ありがとう」という気持ちになれるんです。
このように、私は「夢主」として、この人生を創っていることを、
思い出すようにとますます促されています。
それぞれの「夢主」であるみなさんは、いかがでしょうか?
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