こんばんは。
本日のテーマは、「心のコミュニケーション」です。
言葉って、むずかしいね。
…って、実感することがあります。
最近の世相を見ていると、とくにそう感じることがありませんか?
私たちはもしかすると今、「コミュニケーション」のあり方について、
分かれ道に来ているのかもしれません。
人は、見たいようにものごとを見て、
聞きたいように聞き、
自分の読みたいように言葉も読む。
じかに会って顔を合わせて話をしても、
それぞれの受け取り方には「ずれ」が生じるくらいですから、
そのくらい「心」が伝わらないことがあるこの世界ですから、
それが文字や、ネット上の情報発信となったらなおさらですよね。
メールのやりとりよりは、声を聞きながら話す電話の方が、
微妙なニュアンスも伝わりやすいように…
私たちがより「相手のエネルギー」全体を感じ取れれば取れるほど、
トラブルは少なくなるのです。
たとえば、震災時のネットの投稿について、
いろいろな賛否が巻き起こったという例がありました。
ある情報を見た人が、「いい気なもんだ」とか、「不謹慎だ」とか、
そこから自分なりに意味を読んで、色々な難癖をつけることはできます。
でも、情報そのものにそのような意味が付属されているわけではなく、
見る人がそこに色付け(解釈)をします。
情報の発信者本人の「意図」は、まったく別のところにあるかもしれません。
何かトラブルになる場合、読み手がそこから「悪意」を読みとるから、
ということが多いですね。
「自分の気に入らないもの」をそこに見出しているのです。
でも、それは「発信者」の責任なのでしょうか。
それとも「読んでいる者」の責任なのでしょうか。
私たちは安易に、「こうするのがマナーでしょう」
というようなことを言ったり考えたりしてしまいますが、
本当はそれすら十人十色で、自分とは別の発想もあるのです。
また、人間ならば「うっかり」ということもあるでしょう。
自分と合わない感性のものは、
「見ない」、「選ばない」という選択もあります。
自分の現実の主導権は自分にあるということを忘れて、
いちいち人のふるまいや言葉の中に「悪意を見出す」習慣をつけると、
まさにその「見出している本人」が不幸になってしまいます。
仮に、その場では相手を叩いて、降伏させて、ねじふせて、
「思い知らせて」影響を与えることができたような気がしても、
その同じ「裁きの基準」が、実は自分自身(本人の心)を裁くのだ、
ということを忘れることはできません。
なぜなら、それは「自分の心の中に」あるからですね。
「だってあの人は有名人だから」とか、一般の人に対してでも、
「ネット上で情報を挙げているのだから」とか、
相手を裁く口実はいくらでも設けることができますが、
それは形こそ変えても、本質的に同じ「刃」が自分に向かっているのです。
私たちに今、必要なのは、
言葉や表現という「形」よりも、エネルギーに注目することです。
そして、悪意の幻想や不安という病にかられて、
自分に合わせて相手を変えさせようとしないこと、です。
自分に合わせて相手を変えようとしているとき、
それは「コミュニケーション」ではありません。
そのとき相手の真意など、どうでもいいからです。
たとえば、
「私は今気分が沈んでいるんだから、あなたも合わせてよ」
「私の感じていることにあなたも合わせなさいよ」
という空気を醸し出す(あるいは口にする)人がいたとします。
あなたがそうしてくれることが、
その人にとっては「礼儀」や「愛情」や「気遣い」で、
それをあなたにも要求しているのです。
それは自己本位な望みです。
でも、もしこれが、あなたの家族や先生や、親しい人、
あなたに大きな影響を与える相手から行われた場合、
あなたは「そうしなければならない」と学習し、
そのあり方を身に付けるかもしれません。
本来、気遣いというのは自発的に生まれるものであって、
その気遣い方もそれぞれです。
相手に対して勝手に期待し、強制すべきものではありません。
たとえば、親が滅入ったり苛々しているときに、
幸せいっぱいなこどものあなたが楽しく遊んだり、
鼻歌を歌ったり、踊ったり、ごきげんで話しかけたりして、
八つ当たりをされたり、理不尽に怒られたことはないでしょうか。
あるいは、そのような現場を見たことは?
はっきり区別しておきたいのですが、この例で、
「今、具合が悪いから静かにしてもらえる?」と親がお願いしたり、
「少し休みたいんだ。あっちで遊んでいてくれる?」と説明したら、
こどもとの間に「コミュニケーション」が成立します。
でも、一方的に
「うるさい!」
「こういう風にしなさい!言うことをききなさい!」
という風に叱られたり、命令されたり、
言葉では何も言わなくても嫌~な態度でつめたくされたりしたら、
こどもはしっかりそれを感じ取って、意味がわからなくても傷つきます。
すると、そのような体験の積み重ねから、私たちは学ぶのです。
「自分が自分でいてはいけない」というメッセージを。
人の気分に合わせていないと危険だと学んだかもしれません。
自分自身の感じていることよりも、
他の人たちが何を感じているかに気を配り、
そちらを大切にすることを学習したかもしれません。
もちろん、このような例ばかりではありませんし、
心のコミュニケーションがとれる人たちもたくさんいます。
ただ、もし私たちが
「互いに見張り合い、間違いを犯さないようにびくびくし、
人に気に入られるかどうかを第一に考える」
というようになったら、これはまるで、戦争か何かの最中の、
厳しく統制された監視社会そのものです。
そんな世の中にならないために。
自分がどう感じ、どう眺めているか、ということを大切にし、
必要があれば、思いの「出どころ」である自分自身の心を振り返り、
「悪意の視点」にうっかり捉えられることなく、
相手のエネルギーの奥にある「神性」を見つめてみましょう。
本当にコミュニケーションがとれるのは、そこからだからです。
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