今回は、「自然界の仲間の声にもっと耳を澄ますには」です。
自然界と呼んだ中には、植物、動物をはじめとする多種多様な生物、そして姿をもたない精霊たちも含まれます。
もちろん、人間も自然界の一部です。
私はここのところ幸せな日々を送りながらも、静かに何かが新しい段階に向けて進行しているのを感じていました。
意識の表層の部分では、「何が起きているか」自覚できていなかったのですが、前々回の記事◆「理想を実現するために、変わった方がいいこと」の中で、
自分の望む自然界との関わりについて、風太郎という精霊(私のヘルパー存在チームのメンバー)の話にもふれながら書いたことは、その進行している動きの「1ピース」になっていたようです。
自然界の仲間に対する思いの変化
私は元々、自然界と接することが好きで、特に動植物たちへ深い愛情を抱く方でした。
その性質は、成人した後、スピリチュアリティーにフォーカスするようになってからますます顕著になっていきました。
多種多様な生物への思い、ものの見方、感じ方がガラリと変わってきました。
かつては苦手だった生物に対しても、自然と湧いてくる愛が止められず、そういう自分に驚くこともありました。
例を挙げると、昔の私は、鳥類の一部があまり得意ではなかったのです。
好きな鳥たちもいましたが、苦手な鳥たちもいました。
それが、あるときを境に完全に変化してしまいました。
元々好きだった種に対しても、そうでない種に対しても、あふれてくる親愛の情が桁違いなのです。
また、特に意識して変えようとしたわけではないのに、虫たちに対する感じ方もどんどん変わっていきました。
いつしか虫が苦手になっていたけれど、また苦手でなくなったこと
私は、子ども時代は特に虫が苦手ではありませんでした。
外で友達と虫をつかまえることが楽しかったり、家で飼育したりしたこともあります。
でも、ティーンエイジに入ってからくらいでしょうか、いつしか、虫はあまり歓迎したい存在ではなくなっていました。
一部の虫を除き、できれば遭遇したくない、避けたい生物になったのです。
それが、スピリチュアリティーに目覚める体験を経た後、必ずしも「一気に」ではありませんが、じわじわと虫たちに対する思いも変化していったのです。
その変化の始まりの頃は、こんな感じでした。
「習慣的に」虫を嫌がったり、怖がったりする自分がいる一方で、同時に、彼らを対等な存在として「観察」している自分がいるのでした。
その自分は親愛の情を持っているだけで、まったく恐れてはいませんでした。
そうした移行の時期を経て、ほとんどの虫に対し、怖さを感じることはなくなっていました。
彼らの世界や生活を想像して、興味を持つことが多くなりました。
虫を殺すこともできるだけ避けるようになり(といっても蚊を仕留めたりしていましたが)、家にまぎれ込んだ虫は捕獲して外に逃すのが普通になりました。
かつては大嫌いだった蛾なども、「よく見るとかわいい顔をしているなぁ」と、放すとき感心するくらいでした。
ただし、ゴキブリについては一番長く「いやだな」と感じていました。
遭遇すると、以前ほどの恐怖感はないとはいえ、「勘弁して~」と思っていました。
その一方で、「でもね、彼らだって生きているんだよ。こんなにも嫌われるなんて、理不尽だね、気の毒だね」とせつなくなる自分もいて、だんだんそちらの感覚が優勢になっていくのを感じていたのです。
そしてついに、この間(5月)の引越し前に住んでいたところで、最後にゴキブリに遭遇したときのこと。
私は、相手(ゴキブリ)を見ていて、思うところありました。
ゴキブリさんがくれたメッセージ
これまで、都内の集合住宅で暮らす度に、必ずゴキブリに年何回かは出会う経験をしていましたが、やや不思議に思っていたのは、私が彼らを前より嫌わなくなればなるほど、その頻度は減っていったということです。
同じ建物に住んでいて、物理的対策を取るなど何もしていない場合でも、です。
経験したことがある人はわかるでしょうが、都会の築年数が古い集合住宅に住んでいたときには、いくら部屋の環境に気をつけ、清潔にしていようと、大体同じ季節に彼らの姿を見かけたものでした。マンションそのものに彼らが住んでいたからです。そんな環境の中であっても、自分のエネルギーによる変化は現実に表れるとわかったのです。
そして例の引越し前、最後に暮らした都内の集合住宅では、1階のごみ置き場ではよく彼らを見たものの、部屋では年に1度、決まって1匹のみしか見ませんでした。
それでも部屋内で遭遇するのはいやで、私は「共存していてもいいから、出て来ないでね!」と思っていましたが、最後に見かけたゴキブリは、私の目前で「わざと?何か伝えようとしている?」と不思議に思わざるをえない行動を取ったのです。
詳細は省きますが、そういう感覚をおぼえつつも、ゴキブリ対策用にだけは殺虫剤を用意していたので、それをかけて殺してしまったのでしたが、あとあとまで、
「あの子は、殺されることをわかっていても、身を呈して何か伝えようとし、私に考えさせてくれたんだな」と、そのシーンが心に戻ってくるのでした。
そして私は、しっかりとその「言葉でないメッセージ」を受け取りました。
それから数ヶ月後である今、いつからか苦手になっていた虫という生物に対して、ついに他の生物と変わらない「親愛の情」を実感するようになりました。
すると、とても申し訳なくなり、反省しました。
一体いままでなぜ、多くの虫たちをあんな目(とても好意的とは言えない眼差し)で見ていたんだろう、と。
それと同時に、幼い子どもだった頃、虫は怖いとか嫌いとか思う前の自分の感覚というものが、確かにあったということを再体験したのです。
自然界の声にもっと耳を澄ませたいのなら、どの仲間も除外できない。
私は虫のほかには、そう苦手と感じる種の生物はいませんでした。
爬虫類も両性類も好きですし、陸の仲間、海の仲間、皆魅力的です。
ずっと虫だけが、まだ(大丈夫な種も多々あれど)弱点だと思っていたのが、ついに変化したという実感がありました。
そして、大きな気づきが起こります。
それは、私の深い「願い」とも繋がっていました。
「自然界の声にもっと耳を澄ませたいのなら、どの仲間も除外できない。」
私は、もっともっと自然界の声に耳を澄ませたい、はっきりわかりたい、コミュニケーションを取りたいと思っていました。
動物たち、植物たちはもちろん、色々な生物とお話ししたい。
彼らのことを知りたい。
それは切実な願いで、自分の受け取っているものの精度を高めたいとも思っていました。
大好きだった、たくさんの幸せをくれた、一緒に暮らした動物たち。
彼らが見せてくれた愛に、どうやったらお返しできるんだろう。
彼らの仲間たちや、自然界全体に、どうやってお礼ができるんだろう。
そのことはよく私の心に浮かびました。
もっと声が聴けたら。
もっと彼らのお話に、耳を傾けることができたら。
聞こえていたのに、疑っていたという後悔
私には、大切な家族の一員となってくれたうさぎが存命の頃、すでに自分はスピリチュアルな仕事をしていたのに、「でも、これは私の気のせいかもなぁ」と思うことで、受け取っていた情報や、うさぎとのコミュニケーションを半信半疑の態度で打ち消し、活かせなかったという後悔の経験があります。
(★そのうさぎを看取ったときの経験は、2012年3月に、「旅立つ君へ(死のこと)」という記事で連載しました。全4話と、おまけのエピソードが1話あります。)
◆「旅立つ君へ(死のこと)1」
今振り返ると、寄せる波のようにあれも、これも、ちゃんと通じていた、とわかるのです。
通じていたのに。
お話しできていたのに。
そして、そう気づいていたら、もっとお話しができたのに。
その思いは今では、心からの感謝に変わり、
「人間が気づこうと、気づくまいと、多種多様な生命がみな叡知を持った存在であり、コミュニケートしているんだよ」と伝えていくことへの情熱として残りました。
自分がそうしたコミュニケーションを実践することはもちろんなのですが、「今よりもっと、自然界の声を聴きたい」という願いを叶えるためには、どんな種の生物も除外できないのだということに、やっと気が付いたのです。頭(知識)ではなく、体感レベルで。
それはこういうことです。
たとえば、あなたがおうちで一緒に暮らしている愛しい生き物と、コミュニケーションを取りたいと望んでいたとします。
意志疎通できること、相手の「思い」が聞こえるようになることを、歓迎したとします。
ところがもし、「ほかの生物、特に自分の嫌いな生物の思いは知りたくない」と考えていたらどうでしょう。
恐れがあるがゆえに、「一部」のみをほしがり、別な部分を排除しようとすると、どうなるでしょうか。
自然界は、全体でひとつです。
音楽の演奏を聞きたいと言いながら、オーケストラに参加しているある楽器だけは「聞きたくない」と言って、そのために耳をふさぐと……オーケストラ全体が聞こえなくなるのです。
これと同じことが「自然界の声」にも当てはまります。
どんな存在も大切で、除外できない。
自然界の声をもっと聴き取るためには、私はこのことに絶対的に気づく必要があったのです。
都合のいい存在でいてほしい?
また、もしも「聞きたい内容」と、「聞きたくない内容」があるとしたら、どうでしょう。
あなたがコミュニケーションを取りたいと思っている生物との間に、それが実現した結果、「期待していたのとは違う思い」を伝えられることに恐れを持っていたとしたら。
そんな話は聞きたくない。
これは私の思い描く○○(相手)ではない……
そう拒絶したくなるとしたら、あなたはいっそ何も「聞こえない」方が楽だと決めているかもしれません。
相手に、自分の思い込みの世界の中で、都合のいい(自分の投影通りの)存在でいてほしい?
それとも、自分の思い込みを壊してでも、相手のことを本当に知りたい?
人間が自然界へ耳を傾け、コミュニケートできるようになったなら、人間にとって都合のいい世界観を維持することはできないでしょう。
自然界の仲間たちとのコミュニケーションに臨むとき、「足し算」よりも、「引き算」が重要なのでした。
偏見や恐れがあるならば自覚し、それを自らすすんで取り除く気持ちが必要なのです。
コミュニケートできないという思い込みから目を覚まそう
私は幸い、夢の中ではすべての生物とコミュニケートできる実体験を重ねてきていましたので、起きた後の現実でそうできないのは「不自然」だと感じていました。
動物や植物にも思いも感情もあることは、当たり前に思っていました。
ただ、夢の世界ではあんなに話ができるのに、こちらではそうならなくて残念だなぁ、とも思っていました。
つまり、「あちらの現実(夢)」と「こちらの現実」を分けて、別々のもののように見なす「この世ボケ」をしていたのです。
その頃は、起きている間の現実(こちらの現実)で異種間コミュニケーションができることを「珍しいこと」として、「半分信じて、半分は疑う」という姿勢を持ち続けていたのです。
ただし、スピリチュアリティーへのフォーカスがブレないものになるにつれ、
いや、他の生物とコミュニケートできないと思っている方が異常だよ!
人間以外の生物に対しての、人間の誤解がひどすぎるよ!
と、霧が晴れたように、明晰さを「取り戻した」のですが。
様々な生命とコミュニケーションできることは「普通」です。特殊能力だとか難しいことだと考えるのは、人間の持つ「思い込み」によるのだと思い出しましょう。
そうして心構えを変えながら、周囲の世界を見つめる「目」を変えましょう。
「現代社会の常識」というフィルターを通して自然界を見るのを、やめるのです。
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