家族との関わりというのは、自分のコアな内面をあぶり出してくれやすいものです。
それは、すでに血縁であるとか戸籍上の家族の方がいらっしゃらない方であっても、家族同様の関係性、親しい間柄の人がいれば、同じことが言えるかもしれません。
ただ、一般的には、大人になってからできた関係性よりも、自分の育った環境での「家族」との関わりが一番強烈なのではという感じもします。
年末年始、「原家族(生まれ育った家族)」と接する機会があった方もいらっしゃるであろうこのタイミングで、今回は、「家族との関係は良い訓練の場になる。」です。
原家族に「心」が縛られていませんか。
自分の生まれ育った家族が、あたたかい拠り所になっていたり、かけがえのない存在と感じる方もいるでしょうし、大人になった後もどこか心の負担になっている方もいるでしょう。
もちろん、どちらかに分けられるものではなく、そのどちらもだ、という方も多くいるのではないかと思います。
私は、今は実家の家族と離れて暮らしていますが、大人になって以降も、何度か実家で暮らしていた期間が十分にあったので、ずいぶんと「家族(主に両親)との間にあったあれこれ」をワークする時間は取ったなぁという感想があります。
それを経て、今は「ワークしない」。互いが互いのままでの共存へ、という姿勢です。
昔を振り返れば、「家族」というテーマに反映させながら、結局は自分の心の中を果てしない「泥さらい」のように、しっかり見ていく必要のあった時期もありました。
そういう経験をしたことがある方なら、「いつ終わるんだ!?」と思いながらも、着実にその作業を繰り返していくことで段階的に手ごたえをつかんでいき、ついには、心の中が片付いていた……という明るみをご存知だと思います。
その一方で、実家の家族とは一切もう関わりを持っていないという方の選択も理解できます。
たとえば、どうしても原家族には属せない、居心地が悪い、完全に距離を置かなければ自分を生きられないと感じる方が、大人になってから自分の意志に基づいてそういった選択をしている場合があります。
そうしてご自分の家族を持ったり、家族という形は取らなくとも、ご自身の生き方に忠実に、人生を歩んでいる方がいらっしゃいますよね。
とはいえ、ここでお話ししたいのはそういう具体的な「形」についてではなくて、私たちの「心」のあり方のことなのです。
形はひとりひとり、様々な選択があり得ます。唯一の正解はありません。
ところが、どのような形を選択しようとも、「心」が何かに縛られていると、たとえその対象がすでに「この世に存在しない」という場合でも、ずっと縛られ続けるので注意が必要です。
心が何かに縛られているとわかったとき、それを解くために、
セラピーなどではよく、「過去のストーリー(経験)」に焦点を当てますが、それはあくまで「そうすると理性で納得できるから」です。
「過去」はエネルギー的に存在していますが、あなたがそことの繋がりを作らない限りは、「現在のあなた」への影響力を持ちません。
あなたが旧パターンに反応したり、たとえば原家族との関わりの中で「古い役割」にはまってしまう場合などは、意識のどこかで自ら選択して、「現在にそれ(過去から身に付けた何か)を再現している」ということなのです。
まず、そうしていることを自覚することが大切です。
それは「自動的に起こる」のではなく、「外から起こされている」わけでもないのです。
過去のストーリーは、あなたが意味を与えなければ「そんなの関係ねぇ」。ただし、意識内で観念につかまっていなければ。
「過去が現在を作っている」と信じている方には、理解しづらいかもしれませんが、
あなたは自分の意識によって、「現在」から、あなたの過去も未来も選びます。
現在のあなたの意識的な選択が、どの過去とどの未来を「自分の現実」に「繋がり」として、接続するのかを決めているのです。
あなたが過去の特定の出来事に縛られると決めて、そこにこだわることを意図していたら、「今」その出来事への繋がりを作ります。
そして、繰り返し、繰り返し、その出来事や、それについての自分の解釈、思いや感情を味わいます。
感情が抑圧されていた分を、意識して「今」解放することが有益になるということもあるにはありますが、ただしそのときでも、「新たに同様の感情を作り続けないのなら」という条件がつきます。
「現在という地点で、何度も過去の同じ出来事に戻る」ということを意識内でしているとき、あなたは「今、その体験をしているといるのと同じ」なのです。
物事への「反応」が変わらない限り、同様の感情が新たに「今」生産され続けます。
つまり、感情だけ解放しても、観念がそのまま残っていたら意味がないということです。
観念とは、あなたの信じていること、定義、「これこれはこうである」という方程式です。
感情は、観念に沿って起こる「反応」です。
感情を引き起こす「根本にある観念」に、気づくことが大切です。
同じ観念を信じている間は、結局、「似たようなほかの出来事」からも同様の感情を作るからです。
あなたが自分の保持していた観念に気づき、「これは私の望んでいる観念ではない」と感じたなら、それに力を持たせない「選択」もできるようになります。
そうして該当する観念があなたの意識内で「採用されなくなった後は」 、たとえ、それまでと同じ人間関係の中で、過去に反応していたのと全く同じシチュエーションが起こり、あなたがつい「旧パターンの通りに反応しかけても」、はっと気づいて「そんなの関係ねぇ!」と自ら「過去の記憶と現在との連結にストップをかけ」、それまで通りの「癖になっていた反応」を起こさずに、自分のいたい状態でいる自由を味わうことができます。
過去の出来事からもたらされていた確固たる根拠、同様の環境、同じ顔ぶれ、同じ発言などの条件……仮に全部がそろったとしても、外側は全く何も変わっていなくとも、
あなた自身は「パターンにつられず、意識的な選択ができる」ということがわかるのです。
現実が変わるのはあなた自身の意識から、ということです。
「しがらみ」を解消するより、あなた自身を生きよう。
家族間で起こりがちな「しがらみ」は、根本に愛情がある場合がほとんどでしょう。
家族だからこそ、相手を喜ばせたいとか、愛してほしいとか、自分の持っている愛をわかってほしいとか。それらが何らかの形で根底に関わっていることが多いです。
一例として、全然自分のしたいことではないことを家族が望んでいて、「しがらみ」を感じているとき、どんなことが起こっているでしょうか。
まず書いておくと、あなたは、あなたの人生を生きる必要があるのであって、人の望みを叶えるために生まれたわけではありません。自分とは異なる家族の望みにも従って生きていたら、不幸になります。これは人生の重要な決定ではなくとも、些細なことのひとつひとつでもそうです。
極端な場合、「親や“家”の望み通りに人生が進んでいるけれど、本人はとてつもなく不幸」というケースがありますよね。
自分の心を尊重できずにそうなってしまうのは、「家族を悲しませたくないから」あるいは「喜ばせたいから」など愛情表現のつもりであったり、「(闘っても)適わないから」であることもあります。力関係で、負けていると感じているのです。
何度かは反抗してみても、力(肉体的な力や精神的な力、経済力や立場など)で相手に負けてしまうと、やがてそれが繰り返されるうち「自分は無力だ」との思いを深め、あきらめていくことがあります。
また、「自分の人生を自己決定して生きるのが怖い」という場合もあります。
決めたのが「自分ではない誰か」なら、失敗してもそのせいにできたりと、メリットはあるということです。
いずれにしても、ここには「自己信頼の欠如」が関係しています。
家族という枠組みで見た場合、他のメンバーとの「観念の対立」が起こることはあります。
お互いに信じていることや、価値観が違うという場合です。
あなたには窮屈な観念も、家族には心地よかったり、あなたに適した観念が、家族の誰かには合わないということもあるでしょう。
それぞれが別の個人なので、違っていて当然なのですが、家族をはじめグループや集団では、他のメンバーも従わせようとしたり、自分と同一視したりということが時折起こります。
生じた「しがらみ」を解消したくなったとしても、基本的に、相手を説き伏せようとしたり、自分のことを理解させようとして力を注ぐことは、目的が逸れています。
その試みが実ったかのように見えるときもあるでしょうが、実は、相手の意識のあり方や人生経験、焦点次第で、それが可能なタイミングと、可能にはならない時というものがあります。
そのことはあなたのコントロールできることではありません。
大切なのは、相手の反応に関係なく、あなたがあなた自身の人生を生きること。
そして、相手の観念との間にあまりに噛み合わなさ、「不調和」が起こるのであれば、適度な関わり方、ちょうどよい距離感を「あなたが」心しておくことです。
相手に調節してもらうのを待つのではありません。
自分で、自身のほどよい線引きを決めていくのです。
間違っても、自分さえ相手に合わせれば、上手くいくはずだと思わないでください。
自分が少し我慢をすれば、皆は幸せに過ごせるんだ、という考えに走らないでください。
そのとき、エネルギー的に不調和な人がひとりいることは明らかです。
それは「あなた自身」です。
あなたの経験している現実は(この例だと家族も含めて)、あなたによって創造されているので、あなたのエネルギーが不調和であるとき、その反映である現実も何らかの形で必ず不調和になります。
自分が不調和なのに、現実だけが調和するなんていうことはあり得ないのです。
創造者であるあなた自身のバランスを保つことを、軽視しないでください。
アンバランスに気づくためには、状況より心の中を観察すること。心と体を一致させよう。
親しい間柄でよく起こりがちですが、冗談や楽しい空気にまぎれて、あなた自身は「What the F**k !?(何だって!?/何それ!!)」と内心驚き不快になるような、あなたへの発言なり態度なりがあったとしましょう。
それぞれが、それぞれの個性や世界観で生きていますから、悪気なく軽い気持ちでということも多いでしょうが、あなたにとっては余計なお世話だったり、過剰に踏み込まれていたり、「これは本当に嫌だな(やりすぎ)」と感じる場合です。
そのとき、そう感じたからといって相手を「責める」ことは、自分の解釈で急に攻撃する行為になるだけなのでおすすめしませんが、
あなたがその場ではっきり、自分の「内心」と同じリアクションを取ることは大事です。
心と体を一致させるのです。
「顔で笑って心で泣いて」というのが癖になっている人は、まず、なぜそんなことをしているのか、動機をチェックしてみてください。
空気を悪くしたくない?相手への思いやり?「自分さえ我慢すれば?」の犠牲精神?
もはやそれが習慣になっていると、自分がとっさに繕っていることに驚くかもしれません。
でも、あなたが「顔や反応に表さない限り」、誰もあなたの本心はわからないのです。
家族間でも、エネルギー的に生じているそれぞれの「役割」がありますから、その「キャラ」に沿って仮面をかぶってしまうというのは、よくあることです。
あまりにそれが自分自身とズレていると、その場から離れた後、どっと疲れるのでわかるはずです。
急にキレたり、感情を爆発させる人も、普段の体と心、表に見せている反応と本心が一致していないことが多いものです。
また、「リアルタイムで」表現できずに、後からモヤモヤするという人も同様です。
日常から、心と体の連結、「自分の心の通りに反応・表現すること」を思い出しましょう。
外の状況や空気を読むことに夢中になって、自分の心の動きへの自覚をおろそかにしないことです。
日本文化では、特に感情を隠すことが美徳や礼儀になる風潮も根強いので、自分の思ったことをそのまま表すことが苦手になってしまう人が多くいても不思議はありません。
空気を読むことを推奨される世の中では、「勇気」すら必要かもしれません。
その場であなたがストレートに反応した場合、エネルギーのあり方は変わってきます。
相手の反応は相手次第ですが、少なくとも「私はこうだ」という意思表明はできますし、自分と一致した表現をとる限り、あなたの中に残留するものはありません。
ただ、その先は、他者に「こういう風に反応してほしい」とか、「こう認めてほしい」という期待をしないでください。
それは相手をコントロールしようとすることであり、不毛なことです。
そちらが目的になると、単なる争いになり、どちらも疲れるし、嫌な思いをするだけです。
こうしたことは、家族に限定せずとも人間関係全般の中で起こり得ることですが、家族以外の他者に対してはさほど素直な反応は出ないこと、観察しづらい心の動きも、家族といる場だと顕著になることがありますのでふれました。
魂的に見た「家族という合意のチーム」
家族が多くの人の「悩み」になり得るのは、それだけ、そこに自身の心の様子が「出るから」です。
他の人との間では出し切れていない部分までも直面させてくれる訓練場、そのための「合意のチームメンバー」とも言えるのが、家族です。
先に書いたように、すでに家族と関わりを持たない方や、この世にいらっしゃらないという場合でも、家族やそれに該当する立場の人に対し「何を思ったか」、「どんな感情を抱いたか」から紐解ける発見や、学べることがあるケースもあります。
また、育った環境(魂の観点からは自ら選んでいる「舞台設定」と呼べます)という面では、あえて「自分の性質と正反対」だったり「大きく違いがある」家族のもとに生まれることで、対比させながら自分を発見したり、他の生活を一通り学んだりすることもあります。
渦中では「なぜ?」と思っても、後になってそれが役に立っていること、そこから得たものがあったことを発見するでしょう。
一例として私に関して言えば、両親はもちろんそれぞれの個性ならではの特徴はありますが、ごく一般的な日本人の生活を送っていると思います。関心や好み、趣味も私と似ていません。
そういう家庭で育った私は「一般的にはこうなんだな」ということも身にしみてよくわかっていますが、自分自身の感覚というものはまた別にあります。
これが仮に、「私によく似た」性質の両親のもとに生まれて育っていたら、少なくとも人生の前半はきっともっと楽ではあったでしょうが、私はあまりに「異星人的、異文化的」になっていて、今のような感じで(一応不特定多数に向けて、一般的感覚も理解してという形で)人にお教えしたり、お話ししたりすることはできなかったかもしれません。
そのモチベーションすらも、生まれなかった可能性があります。
双方の世界観を知っているからこそ、翻訳作業のように説明ができるわけですし、あまり理解されなかったからこそ、まず「自分で自分を理解する」意識も向いたということです。
異なる個性の共存を考えるという意味でも、明らかに、その舞台設定による経験は今に生きています。
魂の観点から捉えると、あなたのご家族、もしくはご家族に準ずる環境の中にも、様々な興味深い側面を発見できるのではないでしょうか。
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