数日前、歌詞になぞらえて書いた◆「タイム・リミットという幻想?」の記事の中で、
自分で書きながら補足が必要かな、と思ったポイントがあります。
最後の方で、「苦い夢」という歌詞から説明したところがありましたね。
あの部分を、
「ふーむ。それではやはり、苦しみ抜くことが霊的目覚めには必要なのかな。」
という風に、受け取ってほしくないなぁと思って。
ちがうちがう、ブカン ブギトゥ~!(←「そうじゃない」のインドネシア語 笑)
そこで、今日のテーマはこちら!!
罪があると信じること=苦しみ、
それは「神の思し召し」ではない!
まず、苦しむとき、
そこにはかならず何かに対するジャッジ(裁くこと・判断)があり、
どこかで自分が罪というものの存在を認めている、
ということを理解してください。
「罪」を信じ、苦しむことは、神の意思ではありません。
言いかえれば、内なる神性の意思ではありません。
状況そのものは中立、ってよく言いますよね。
状況それ自体に決まった意味はないと。
でも、状況にどう意味づけするかについては、
たったふた通りの見方があるのです。
エゴによる解釈か、神性に基づいた解釈か、です。
さっきの、「苦い夢」の話に戻すならば、
ある状況を嫌がりながら、おそれながら、そこから出ていくことはできない
ということを、お伝えしたかったのです。
なぜだかわかりますか?
嫌がったり、おそれたりするということは、
それがリアルであると思い込んでいるということだからです。
(エゴの基準に基づいたものの見方を信じており、同じ視点のままである。)
たとえその特定の状況から逃げ出すことができたとしても、
そこに流れている怖れをリアルとみなしている限り、
結局は別な形で同じような世界を見ることになるでしょう。
ですから、
苦しんでいたら、まずは、それとは違うものの見方、
それとは違う解釈があるのだと知ること。それを認めること。
これが必要です。
苦しみが、神の思し召しだと信じてしまったら…そこから抜けられませんね?
その思考をするとき、その人の信じてしまっている対象は、
「罪と罰」の存在を肯定している、「エゴ」なのです。
そうではなくて、
「罪」はない ということを前提に、
苦しんでいるときの自分のものの見方が、シンプルに間違っている!
これを知っていれば、「本来の姿を知っているもの(内なる神性)」に、
こう呼びかけることができます。
「私はこれを誤った見方で眺めています。
内なる神性に基づく見方に、訂正してください。」と。
☆スピリチュアルカウンセリング☆