コースにもよく出てくる「誤りを正す」とか、「修正」という言葉がありますが、
これは、私たちの体験する現実の、ある側面を示しています。
今日はこれを、ごく日常的な目線から見て、
具体的にどんな感じなのか、説明してみますね。
簡略化したひとつのたとえになりますが、こういうことです。
☆☆☆
ある人が、とても怖れていたとします。
その表れが、「心配性」だったとします。Aさんとしましょう。
Aさんは、夫が家に帰ってくるのが遅れると、
娘がメール連絡を忘れると、
すぐにもう、不安に陥り、あれやこれやと心配を止められず、
悪い妄想をして、気が気ではなくなってしまうのです。
ただの心配だけでなく、
個人的に受け止めて、その「意図」まで読もうとします。
しかし、実際には、「ただバスが遅れていたよ~」
とか、「友人としゃべっていて、うっかり連絡忘れちゃった」
などが真相だとします。
けれども、自我というのは、状況を何でもかんでも、
もともとある自分自身の怖れに、結び付けて考えるのです。
自分を中心に、そこから勝手な妄想のシリーズを果てしなく作るのです。
自我が叫んでいる「具体的問題」は、はっきり言って嘘です。
うわべに、適当な理由を引っ掴んで、その殻をまとっているだけです。
こうしてお話ししている私たちには、
Aさんのそれが怖れによる妄想であるとわかりますが、
それでも、この人の立場になれば、心で起こっている妄想はリアルですね。
毎度毎度、「苦しみ」を生み出します。
その不安は、実際に体で感じられます。
このような「心配」をしていると、Aさんは、状況をコントロールしようとします。
外を変えることで、なんとかしようと思います。たとえば、
「ねえ、私がそうならないように、必ず連絡してちょうだい。
私に心配かけないように、気をつけてほしいの!」
言われた側の反応はまちまちでしょう。
従順な人だって、いるかもしれません。
でも、Aさんはここで、外の人を制限してしまいます。
自分の思い込みの現実に閉じ込めるのです。
(◆「魔法をとくのはあなた」の記事で「カプセル宇宙」のたとえでお話ししたことです)
自分の心の態度によって、Aさんは、
自分の外の人の取りうる態度や行動も、確実に制限しているのです。
見ることのできる「側面」を限定していて、全体の姿は見ていないのです。
こうして、Aさんは自分の妄想をリアルだと思い続けるために、
心の内容、ものの見方が変わらないままになってしまい、
たとえ外の人をどんな風にコントロールしようとも、そこにどんなに力を注ごうとも、
状況や相手は、本質的に同じテーマを、繰り返し運んでくることになります。
その一方で、
Aさんが妄想に入るとき、スピリット(真の自己でも、内なる神性でも、天使でも、
どういう呼び名をあてはめても本質的な意味は同じです!)は、
「それは妄想だよ。起こっていないよ。
そうではなくて、こっちへ目を向けてごらん」
という導きを、何とかAさんに受信してもらおうとします。
けれども、Aさんの「妄想」に隙がなく、
本人がそれを止める意思がまったくないと、なかなか難しい試みになります。
それだって、スピリットは働きかけをやめないのですが、
Aさんはどんどん、自分の怖れに基づいたさらなる選択(決定)を、するのです。
現実創造の難しいシステムに思いを馳せなくとも、
そうした選択が、それに続くAさんの次の出来事に関与するのだということは、
私たちの目線からも想像がつきますね…。
たとえばまた、夫にからむのかもしれませんし、
自分の怖れから、体を壊してしまうかもしれません。
不安をまぎらわすために、自分を害する習慣に手を伸ばすかもしれません。
いずれにせよ、ここが大切なのですが、
いかなる「怖れの現実」を、Aさんが生み出そうとも、
スピリットは、それを「修正」します。
どういうことかというと、
「こっちに戻りなさい。あなたは間違っているよ。」
と、様々な形で、同じ本質を色々な形態、表現のメッセージに託し、
繰り返し、繰り返し、真の自己へ戻れるよう、導いてくれるのです。
それは内なるささやきや、感覚としてだけでなく、
外の状況、出来事としてもあらわれます。
毎回、毎回、私たちには選択(選び直し)の機会が与えられています。
これが修正のひとつの側面です。
真実ではなかったこと、起こっていなかったことを信じたことで、
妄想が生まれました。
その妄想を手放さず、そのままにしたことから、
今度はその怖れをもとにした選択(決定)が生まれ、
選択したことから、状況が生まれ…
こうして、人は、「虚の現実」を作っていくのです。
ただ、
どんな現実を私たちが選択しようとも、
その中にもまた、かならず「神性」があります。
見ようと決めれば、それを見ることができます。
このことは、いくつか前の記事でも書いた通りです。
まるで、この世界は、「天使と悪魔のたたかい」にたとえられるように、
ひとつの状況の中でも、神性と自我という、
一見拮抗した力がそれぞれ別方向への誘いとして働いているわけです。
起こっていることを信頼することで、あなたはそこに肯定的な意味を与え、
自動的に神性の方向へ向き直ることができます。
「修正」という観点から、このように人間が起こす苦しみについて眺めたとき、
避けようと思えば、避けられる苦しみもあると、
少なくとも、それを短縮(軽減)できると言うことができます。
真の自己はどんな決断も、状態も、「裁く」ことはありませんし、
体験に、よい、悪いという評価は存在しないけれど、
あえてやらなくてもいいこともある、
私たちが「自ら気づく」ことで抜け出すことができるとは知っていてください。
そう、
スピリットとの「一致」、「不一致」の選択があるのだということが、
なんとなく掴んでいただけたでしょうか?
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