こんばんは♪
前記事に続き…自分のずっと「知っていたこと」を書こうと思います。
私は、過去記事の中で何度か、
アセンデッド・マスターと呼ばれるエネルギーだろうが、
大天使や天使と呼ばれるエネルギーだろうが、
いかなるものにも分離はなく、私たちの「存在」に、
そのエッセンスは含まれているということをお伝えしました。
私が、人の“サポートのエネルギー”を読むとき、
(サポートというか、その人のより大きな存在を見るのですが)
それを見ることで、その人のスピリットとしての個性がわかる、
ということも以前書きました。
(例:大天使○○のエネルギーがあるということは、
この人のスピリットはこういうことに関心があるんだな、等)
結局、「私」と思っている「個」の中に、
どんなエッセンスが、どのくらいの割合で配合されているか。
そのブレンドがそのまま、構成要素というか、
この人生の、ユニークな特性としてあらわれていると感じます。
それを、こう表現することもできます。
現在のあなたは、別の次元(私たちが高次、と思っているもの)の、
物質次元での表れ、物質次元バージョンです。
このような見方で生きている私からすると、
実はずっと、疑問に思い、引っかかっていたことがありました。
それは…
「神」や、「悟り」という概念についてです。
なんというのだろう、それ自体というよりも、
いわゆる「到達すべき高み」みたいな観念のことかなぁ。
自分の人生の流れから、どちらかというとセラピー(癒し)の切り口から、
精神世界・スピリチュアルなものに携わり始めた私にとって、
「悟り」を求める心境というのは、よくわからなかったのです。
そういうテーマに携わる仕事で、その「探求風景」をよく見ていたからこそ、
そこにはっきり、違和感がありました。
その謎は、あるとき、自分の中での「スピリットとしての自覚オープン!」
みたいな時期を体験してから、ますます深まってしまいました。
というのも、
私にとって、この個としての経験というのは、
明らかに、それぞれが望んで選んでいるものだとわかり、
それはいわば、
ひとつの存在(源)から提供されたプレゼントと見ることもでき、
私たちは今だって、誰も切り離されていないのです。
そして、自由なのです。
一般に言われる「悟り」には、
衣(付加イメージ)が着せられている気がして、仕方なかった。
その微妙な気持ちを、
自分なりに見つめてきて感じたことを、ここでシェアしたいと思います。
たぶん、地球の「時」という観点で見れば、
ある時代までは、「神」や「悟り」という概念は、
シンボルとして重要なものだったのだろうと思います。
それを「体現」することで見本となり、大勢の人々を導く人がいて、
そういう体験、意識を持った人はごく少数だったために、
「達成すること」の側面が強調されたのかもしれません。
でも…
私個人の感覚では、とくに最近、
自分より下のジェネレーションの人々を見ていると、
よりいっそう感じるのですが、
そういう時代はもう終わったんじゃないかな?
みんな、けっこうすんなり「覚えてる」、よね?
感覚で知ってるよね?
なんて、思うのです。
これって、決してそんなに神々しい特別なものではなく、
どこまでを「自分」と思うかの違い、と言えばいいでしょうか。
今、「個」の自分をやってはいるけれど…
フォーカスがそこにある、それだけだよね、って。
多くの人が、そのことに自然と気づいていませんか?
人間は、ぐるぐると輪廻転生している、
カルマでその輪につかまっている、という概念も信じることはなく、
正直、一片の曇りもなく、ずっとこう思っていました。
(「悟り」という言葉をあえて借りればですが、)
悟った存在が、好んでここにいるのだ!と。
これについて、「達成の価値観」を採用してしまうと、
「傲慢さ」という概念がチラつくかもしれないけど、
じつは、素で、私みたく感じている人はいっぱいいるんじゃないかな?
これは決して、特定の個人としての「私」の、
「特別性」をあらわすものじゃなくて、
みんながそうでしょ、という思いであって、
だからこそ、外に神を置くのではなく、
「源(ソース)の与えてくれた私自身であること」
に、目を覚ましていることが大切だと思うのです。
そうしていると自然に、
みんながちょうどよくそれを担っていて、
他のものとの関連が実感できて、
「全体性」を忘れることなんて、どうしたってできっこないとわかるから。
私は、自分自身の性質から、
経験のために着込んでみた「地球ゲームの思い込み」を落とすこと、
浄化することはよろこびである、と思っていますが、
そして、「成長」に終わりはないと思っていますが、
それだって、
完全無欠なスーパーマンになれ、って意味ではないんですよね!
「比較」できる基準はない。
「不完全な自分」かと思いきや、
あなたにとっての自然な感性が、小さなことが、
あなたの人生のテーマと直結し、役立っていることばかりです。
だから私は…書きたくなったのです。
精神世界のフィールドを見つめると、
達成としての「悟り」、「神との合一(というか特定の体験)」に憧れ、
追い求める価値観が多いから。
それがこの人生の楽しみ、内から湧き上がる純粋な興味!♪
という場合をのぞいて、
もしも…それが楽しみではなく、
何らかの「不足」の気持ちから追いかけるものであれば、
つまり、「悟り」で手に入れたいと期待している資質が、
現在の自分にはないと信じているから、希求しているのだとすれば…
ちょっと、ステップ・バック!
本当にそれ、必要かな?
自分をよく見て。
周りをよく見て。
地球の愛しさをよく見て。
あなたはなんで、ここにいる?
以前、夢で見たことを記した記事の中で、
「悟りのアスレチック」というのを書きましたが、
(こちらの記事です◆「怖れのワンダーランドから降りる」)
それもひとつのゲームに過ぎないのかもしれないよ。
「全体的な自己」の目線に立てば、
本当は、どこにも「ゆるし」なんて必要ない。
ただ、私たちは「魂の目的(性質)」を知っていて、
どうしても忘れることはできなくて、
それは湧いてくる流れとして止められない。
生命の本質を知っているから。
うさぎがなぜ、あんなに楽しそうに跳ねるのか。
お花はなぜ、あんなにも輝いて咲くのか。
同じものを実感する今日この頃です。
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