人生の中で、人に何かを教える立場になることがあります。
必ずしもそれが専門の職業でなくても、たとえば、
親が子に、先輩が後輩に、会社等の中で先に仕事を覚えた人が新しく入った人に……
きっとあなたも「教える」機会を経験しているでしょう。
そんなとき、気づくことはありませんか。
先生は生徒であり、生徒は先生であることに。
人に教えることで、自分が教えられていることに。
私は、上記のような人生の様々なシチュエーションで教えるときもそうでしたが、
特に、仕事として「教える」立場にある講座や、個人セッションをさせていただくときに、
強くこのことを実感し、感謝の気持ちに満たされます。
それについて、今回はお話しします。
タイトルは、「先生は生徒、生徒は先生」です。
すべての人は鏡
人に教えるとき、教える内容を自分が身につけていなければ教えられないし、教えるという行動を通してより極められるところが明らかになり、もっと学んで向上することができます。
そういう、ごく普通の意味でも、「教えることは、学ぶこと」と言えますが、ここでは、さらにスピリチュアリティーの観点からお話しします。
すべての人は、鏡(自分の意識の反映)です。
今回の話題の便宜上、「すべての人は」と書きますが、あらゆる生物を含む「すべての存在は」と言っても同じです。
先述のように私の場合、講座や個人セッションをしながらそう実感します。
私にとってのみならず、
複数人のグループで、ある共通テーマに取り組む講座では、そのときのクラス全体が「それぞれにとっての鏡(教え合う関係)」となりますし、
ある人にとって、クラスの「特定の人や発言が、ピンポイントで自分の鏡と感じる」という作用も起こりやすいのです。
講座でこんな体験をするかもしれません
たとえば、ある講座の回で、クラスに参加しているAさんにとってはBさんが特に「今」、自分に響くポイントを表現してくれていたとか。
CさんにとってはDさんが、まるで自分と同じ(あるいは反対の)要素を映し出す「鏡」となり気づきを与えてくれたとか。
心の中で保持している物事を「外側に」、自分とは別の存在のこととして見て、経験する現象が起こります。
ここで思い出していただきたいのは、「すべての人が」自分の反映ですが、
ちょうどあなたが健康なとき、体の一部をことさらピックアップして、そこだけに集中して気にすることがないように、
あなたにとって素通りするような、胸に引っかからない他者もいるはずです。
一方で、「ガン!」と心に響くような、何かすごく揺さぶられるような印象を携えた他者がいるとき、それはあなたの内にあるものをその人に見ているのです。
この意味で、「鏡」と呼んでいます。
それは、あなたの内をストレートに映し出していることもあるし、ある要素を多角的に表現していることもあるし、あなたのうわべの思いと「真逆・反転」した内容を見せてくれることもあるでしょう。
表れ方がどのようであれ、本質は、「自分の内にあるものを外に見ている」ということです。
個人セッションで気づかされる、素晴らしい力
講座に対し、個人セッションは一対一でお話ししているので、私とご相談者の方とは何らかの形でそのときすでに「鏡」の関係であると言えます。
人は、自分と全く「かすりもしない」エネルギーの人とは出会うことができません。
たとえ一時的にであっても、何か噛み合うところ、マッチするところ、奉仕し合える要素があるからこそ、出会います。
うわべ上ネガティブに見える関係も、ポジティブに見える関係も、そうです。
個人セッションでは、
「ああ、なるほど、だからこの方は私のところにいらしたのだな」
と、気づくことがよくあります。
言うなれば、私のこれまでの人生で乗り越えてきたこと、成熟させてきたエッセンス、あるいは私の生まれ持った特質、
そういう要素がまさに、個人セッションの中で意味を持つことが多いのです。
この人生を歩んできた人(私)だから、今、こちらの人生を歩んでいる人(あなた)に接して、お話しできているんだ
そんな「交差ポイント」がわかることがあるのです。
それは自分の積み重ねてきた選択にも関わるもので、別の選択をし、別の経験をした、並行現実の「私」だったら、その方とは出会っていないかもしれません。
こんな風に想像してみてください。
ひとりひとりを「霊媒」とします。
スピリットからのメッセージを受け取り、それを言語化して他者に伝えます。
でも、そのとき、スピリットの伝えていることの「中身」を表現する器が十分になかったらどうでしょうか。
物理的に、言葉という「記号」を用いることはできますが、その言葉に伴うはずのエネルギーが入りません。
まるで、機械音の組み合わせで「自動音声アナウンス」を作るときのように。
その意味で、「器」は調整しなければなりません。
ある物事の「深度」を正確に伝達したいなら、その深さを、器に持たせなければなりません。
誰もが自分が習得した深さの分だけ、マスターした度合だけ、教えることができます。
例としてスピリチュアルカウンセリングで言えば、各ご相談内容に含まれているのと全く同じ、具体的な経験を全部私がする必要があるという意味ではないのです。
その奥にあるエッセンス(本質的深み)を私が共有できるかどうかです。
予想外の体験と、畏敬の念
また、教える機会を通して、私は「予想外の体験」をすることにも気づきました。
これまでスポットライトを当てていなかった所が光に照らされて浮かび上がるように、
予想よりすばらしい!
という驚きの体験をするのです。
それは、私ひとりでは決してできないことです。
二者が、スピリット(本来の自己)のエネルギーのもと、一致したフォーカスを向けて初めて、これまで見えていなかった道が明らかなものとして現れます。
このとき私は、「教えられているんだ」と、わかります。
人間の持つ可能性を。素晴らしさを。
スピリットとは、本来どんなものかを。
スピリチュアルカウンセリングの個人セッションというと、お悩みがあって相談するイメージがあるかと思いますが(実際は色々な動機の方がいらっしゃるのですけど)、そうであっても、
問題や悩み、葛藤があるときには必ず、
「これまで以上の自分になるための誘い」を受け取っているのであり、
これを正しく見つめれば、私たちがより「自分自身」になれるチャンスなんです。
私個人が想像できる程度をはるかに超えて、
セッションでお話しした方の中にある強さと輝きが、その真実を教えてくれます。
すると私は、私たちに共通の「真の自己」に畏敬の念を抱き、感謝せずにはいられないのです。
教える人は、教えている内容の本質を、自分に対して強化する
人に教えるとき、あなたは、「自分が何を信じているか」を伝達します。
そして、あなたが伝達した内容の本質は、あなた自身の中で、強化されます。
たとえば、親が子どもに「世界は怖い所だよ!」と教えたとすると、
子どもがどの程度その観念を受け入れるかは、最終的には子ども次第です。
けれども、その観念を子どもに教えることで、親本人の「世界は怖い所だ」という観念は確実に強化されます。
元々自分の中にあったのに、「教える」ことで補強する選択をしたのです。
外に何かを与える(送り出す)と、世界は鏡なので、その本質はただあなたに返ってきます。
教えることは、私はそれを信じているという「確認」です。
このことに信頼を置きますという宣言であり、行動でもあります。
行動は、見えない次元(内側)を形にする最終段階のパフォーマンスですから、自分の宣言に力強く承認の判を押すようなものです。
あなたから何かを教えられた他者が、あなたへ承認を返すのではありません。
他者に教えることであなた自身が、「私はこれを信じる」という承認をしているのです。
外の世界は、あなたがエネルギー的にどんな内容を送り出しているか、教えてくれます。
また、そうした外の世界に対して「自分がどのように反応しているか」を知ることで、自分自身が何を「今」信じているかを認識することができます。
「教える」ことを通して、あなたは教えられます。
あなたが外に何を教えているか、その内容は自身のスピリットと一致しているかどうかを、よく見てください。
スピリットと一致した教えを伝えていると、癒しやよろこび、予想外のすばらしさという驚きに出会い、私たちすべてに共通の本質について、体験から「教えられる」ことになるでしょう。
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