こんにちはぁ
ガッツリ系の記事が続いておりますが、
今日はちょっと趣向を変えて、おとどけします。
「死後のこと&意識の使い方☆」
実は今回のテーマも、今日みた夢からヒントを得たのですが…
私は夢の中で、
実在の方の(といっても知り合いや、直接会った方でもありません)
現時点より過去の、人生のとあるシーンに参加していました。
私はそれをわかっていて(把握していて)、参加しています。
なので、色々なシーンを、その人の人生の「中で」、
一緒にリアルに体験しながらも、
それは現時点からみたその人の「過去のひとつ」でもあるわけで、
私にはおおよそのいきさつがわかっています。
実際に一緒に経験しながら、その場にいる者として、その目線で、
その方のパートナーやお子さん、他の家族や友人を見ることができます。
そうやってその方の人生の中に参加しながら、
夢の中の私が疑問に思っていたこととは。
「ところで、私の姿って、みんなに見えているのかなぁ~?」
ということでした!(^▽^;)
確実だったのは、そのときまだ幼児である、
その人のお子さんには見えていました!
ときどき、私はその子にボールを転がしてやったりして、
その子もちゃんと私を見て、遊んでいたんです。
だけど、どうも周りの大人たちは気づいていないようだ…?
私は、一緒に部屋の中にいたり、
テーブルについたりもしているのだけど、
(茶菓子を一緒に食べたりもしていましたね!!)
それがごく自然で、その場にいる人々に拒絶されている様子はない。
邪魔に思われている様子もない。
ただ、その人の人生に本当はいるはずのない私なのに、
誰もそれを気にしていないのが不思議で。
この「場」に参加できているということは、
心のどこかではちゃんと、私がいることを受け入れられているのだけど、
実際の「人生ドラマ進行中」の主人公&人々には、
見えていないようにも感じたのでした。
☆☆☆
この夢から目が覚めて私は、
(こういう経験は何度かしていますので)
今日は意識の使い方についてや、「死後」と呼ばれる状態について書こうかな、
と、思った次第です。
☆☆☆
意識の使い方
については、ここのところ本当に力を入れて書いていますが。
「死後」の方は…
実は、「死後」という言葉はあまり適切でないなぁ~と思います。
私たちは現在も、「生きているのと同じくらい死んでいる」
と言えるからです。
つまり、意識は、私たちが「この生」と思っているものと、
「死後」と思っているものとの両方を同時に体験していて、
「この生」が終わると→「死後」の世界がやってくる、
というわけではないからです。
あなたは現在も自分の「死後」と思っている環境にベースがあり、
同時に、意識の一部をこの舞台に向けている、と理解してください。
なので、人生を体験しながら
「意識の使い方」
に長けておくことは、存在としてのあなたの活動全体を豊かにします。
今あるような肉体にフォーカスする体験ではなく、
「体」をつくらずに活動するときにも、
やはり存在は「意識」を使うのです。
私は以前、「観念を調べる際に、知っておきたいこと」
という記事の中で、
地球体験は創造性の練習場である
という旨、書きました。
この体験でのすばらしい所は、
「ゆっくり、具現化する。」
自分の意識の発信内容を、時間をおいて眺めることができることです。
夢の世界、とくに「明晰夢」がイメージできる方は想像しやすいと思いますが、
意識の発信したものがタイムラグなしにどんどん即座に具現化していたら、
現状の私たちは、とても困ったことになります。
あなたという意識(「存在」としてのあなた)が、
ここに焦点を絞っている部分の活動では、
同じ意識の中にありながら、まだその全容を扱いきれていません。
なので、一見、
自分が現実を創っているということも、把握しきれていないかもしれません。
(と、同時に、必ず、知ってもいるのですが~ 笑)
あなたが自分の意識を部分部分に分けずに、
「ひとつの自分」として認識すればするほど、
その確信は増していくと思います。
なので、あきらめないでね。
自分が設けている「意識の限界」を自ら認めることのないまま、
ただ放棄するということをしないでね。
この人生を生きながら、楽しく、それに気づくのです。
それは、この体験をしている間にあなたが
「すべて」を知らなければいけない、という意味ではありません。
ただ、あなたは調和し、自分の人生を十二分に生きながら、
あなたの意識の能力を伸ばしていくことができるのです
でも、そうできない
と決めてしまうことだけが、唯一の障害です。
では、話を、私たちの呼ぶところの「死後」に移します。
☆☆☆
繰り返しますが、これは本当は、「死」でなくても、
たとえばあなたが眠っているとき、意識を日常からふと外しているとき、
ふつうに起こっていることです。
その意味で「死」は特別な体験ではありません。
私たちが、体を自分と同一視する体験からフォーカスを外しますと、
(一般的にいう「死」が訪れますと)
それでも、「私」という意識があります。
急に自分が誰だかわからなくなるというようなことではありません。
意識の様々な状態に親しんでいればいるほど、
今までの人生の自分であると同時に、違う自分でもある
そんなゲシュタルト的な視点が容易に受け入れられると思います。
自分の一部である、
“たくさんの自己”を自分が持っている存在だとわかっている上に、
あなたの活動の場は、今まで見ていた物質的な体験だけではないと、
あなたは知っています。
ところがもし…これらに気づくことなしに、
「自分」=「この体である」
「活動の場」=「物質的な体験だけである(それしか存在しない)」
と、信じ込んでいますと、混乱することになります。
体がないのでどうしようと思ったり、それをなんとかしようとしたり、
物質的な体験の中でこれまで通り活動しようとするのですが、
生前と同じようには活動できなかったり、
(あるいは、そうしているつもりになっているかもわかりません。)
また、別のケースもあります。
宗教的な信念体系というのは、途中まで役に立つこともあります。
たとえば、とある宗教を信じていて、
死ぬと同時に消滅するわけではないのだと、わかっていたとします。
するとその人は、教えてもらったシステム通りに、
お葬式や祈り、お経、
一定の儀式をしてもらうことで次のステップに進めるのだと思ったり、
三途の川を渡る、先祖が迎えにくる、
天使様や○○様(神様)が迎えにくる、
…どんな風にでも、その通りに体験することができます。
でもそれはおとぎ話のようなもので、
そうしていくうちに、自分の意識の本質に気づいていくわけです。
「天国」や「地獄」の信念も、そうです。
それから、いわゆる「無」になる
「大いなる空と一体化して消滅する」
これも、そういう体験が実際にできるでしょう。
ただ、それでも意識は無くならないので、
それに自ら気づいたとき、また活動することになります(笑)
あなたが今、この人生を通して、
自分の意識というものに親しんでおくことで、
色々なことがわかるでしょうし、
そういった「死後」と呼ばれる体験を怖れることもなくなります。
上記に説明したようなどんな道筋を通ろうとも、
結局は、自分の意識の在り方に気づくことになりますので、
心配は要りません。援助もあります。
ただ、そういう体験と直面するまで待たなくても、
今から、自分が意識を使っているのだと気づくことが、
私の「おすすめ」だということなのです。
また、自分の意識が体験を創っていることが認識できれば、
「怖い夢」などもそうですが、
「どうにもならない、何らかの力によってこれが引き起こされている!」
と、パニックになる必要がありません。
最近の「創造」の記事でお伝えしているように、
落ち着いてその根源を眺めることができますね!
起きている間の、この現実での体験はもちろんのこと、
「夢」の世界というのも、とても親切な、実験場です。
夢は、私たちが起きている間に認識しているような、
物質にフォーカスしているときのあり方と、
物質にフォーカスしていないときのあり方との、
ミーティングポイントでもあります。
ですので、夢では、すでに亡くなった存在だったり、
この現実にフォーカスしていない存在とも出会い、
やりとりすることがあるのです。
☆☆☆
今日のお話はここまでです!(^-^)/
このテーマについてはまたときどき書いていきます☆
そうそう、
物質的な体という姿を持たなくとも、
存在している「存在」はたくさんいるということ
(なんだか言葉遊びみたいだ~(*^▽^*) )
実際、あなたも、今も、
別の活動の舞台ではまさにそういう存在だということ(笑)
冒頭に書いた夢のエピソードもちょっと想像していただきながら、
このことを知っていただければ幸いです
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