こんばんは~。
先月、◆「棘のないバラ」という記事で愛にまつわるテーマを書きましたが、
それ以降も自分という存在を見つめれば見つめるほど、
愛というテーマは浮かび上がってきており、発見が多くありました。
中でも今回は、「無条件の愛って、自分に向けていいんだよ。」
というタイトルでメッセージをお伝えします。
無条件の愛で誰かを愛したい? 外の世界を愛したい?
それを実践したい?
無理無理、自分を無条件に愛するということがわかるまではね。
外へ向けて頑張るあなた。
そこで何かを起こそうと、証明しようとするあなた。
どうぞ、誰かに・何かに対する愛で自分自身を鍛えようとしないで。
それはあなたの内側から映し出されている影絵のようなものだから。
あなたが愛を向けるべきところは、まず自分自身なのだから。
あなたがあなたをゆるしていない部分は、
どうしても外の世界の経験に映し出されてしまいます。
見えるものを無条件に愛そうとする、一生懸命その練習をする、
そのあなたが、自分自身の内面を置いてきぼりにしてしまうのはなぜでしょう。
多くの人が、自分の素晴らしいところを過小評価しているか、
ちっとも気づいていないことがあります。
そしてそれどころか、「もっと、こうならなければ!」
と、自分を追い詰め、苦しめてしまうこともあります。
どこを見ているの?
どうして、自分に対してそんなに厳しく、盲目になれるの?と思うくらいに。
それは、スピリチュアルカウンセリングの個人セッションや講座でも、
ご相談者の方や、参加者の方々に対して、
こんなに素晴らしいということに気づいていないのか…!
と驚いたり、
その方がすでにしていることで、ご自身はちっとも評価していないことを、
「それができるのは、すごいことなんだよ!」
と、心から思うことがよくあります。
でも、よくよく振り返ると、
私だって自分には、無条件の愛なんて注げていなかったことに気づきます。
なぜ、人間はそんなにも自分を批判してしまうのでしょうか。
あるがままの自分に不足があるとして自分自身を責め、
ただある幸福を遠ざけ、気持ちを沈めようとするのでしょうか。
人生を楽しもうと思ったって、あれやこれやと自分にダメ出ししていれば、
ちょっと気分が良いときがあってもすぐにつまずくに決まっています。
自分に色々な「条件」をつけて、それを満たしたとき以外愛さないのですから。
愛がそこでせき止められて、流れないのですから。
一体、何がどうなればその状態なのかも本当はよくわかっていない、
漠然とした「完全な自分」、
それに到達するまで、人生をただただ楽しむことはおあずけでしょうか?
そんな風に生きるのが当然だと感じているとしたら、なぜなのでしょうか。
人を愛することも、愛されることも、外の世界を愛することも。
自分を無条件に愛せなければ、めいっぱい楽しめるわけがないのです。
ちょっと「間違ったことをした」、「不足があった」、「不十分だった」、
そう言って、自分の頭をいちいちはたくようでは。
お仕置きに、あるがままの自分を、心の小部屋に度々閉じ込めてしまうようでは。
外の世界に、じゃない。 人に対して、じゃない。
自分にこそ、たくさんの条件を付けているのです。
それを満たさなければ愛せない!と。
逆に言えば、無条件に自分を愛したら、
あなたは一生を楽しむことができるということ。
外の状況に何があっても、関係なく。
それは何にも代えがたいものじゃありませんか?
なぜ、自分は今のままの自分を無条件に愛さないのだろう?
そう問えば、
それを止めているのはみーんな、幻想世界のルールたちであると気づきます。
それらはただの、地球ゲーム用にインストールしてみたプログラムなんです。
あなたの存在よりもそれら条件に信頼を置くことで、
自分を苦しめているのなら、心を、人生を曇らせてしまっているのなら、
いっそ、プログラムを手放しましょうよ!
スピリチュアルカウンセリング個人セッション
対面、スカイプ、電話でお話しします