BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

魂視点の愛と、人間の思う愛や恋愛との違い

これまた、しばらく前から書こうと思っていた流れの記事です。
「魂視点の愛と、人間の思う愛や恋愛との違い」です。

この世界での肉体=自己と捉えることをやめ、「存在」としての自己の視点に戻ると、この世で「愛」と呼ばれているものの多くに、違和感をおぼえるに違いありません。

特に「恋愛」に関しては、ほとんど自己中心的な産物と言っても過言ではないくらいです。
そこに違いを生むことができるとしたら、そのことを本人が「自覚しているか」、「自覚していないか」という点で、です。
自覚があるとき、恋愛を通して「愛」の一側面を探求することは可能ですが、
自覚がないとき、恋愛は「病」です。

私は、世の中にあふれる創作の(絶賛されたり憧れられたりしている)「ラブ・ストーリー」に共感できないばかりか、ぞっとしてしまうことが多々あります。
とはいえ、ずいぶん昔は、私もそういったストーリーに涙したり心動かされたりしていたし、実際にそのような観念に基づく様々な恋愛に身を投じてきた経験もありました。
ですから、過去の自分を除外する気は全くありませんし(笑)、色々感じて経験しながら観察し続けたからこそ、「今」ある気づきをお話しできるとも言えます。

あなたが「魂視点」に戻りその観点が当たり前になればなるほど恋愛の多くは自己中心的な視点から美化され、脚色され、ときに「正当化」されていると気づかざるをえないのです。

今回はそんなお話と、人間視点で考えられている「愛」とは異なる見方について語ります。

期待の渡し合い。「この期待を引き受けるから、こちらの期待も叶えてね」

人間の思う「愛」によく現れるのが、「期待の渡し合い」です。
たとえば、「私は、あなたはこういう人だと思う(こうであってほしいという期待)」
そして、相手がその期待に沿わなかった(望む形じゃなかった)なら、「落胆」します。

するとあからさまに、あるいはひそかに、「相手を変えよう、自分の信じた通りの形に沿ってもらおう」とします。同時に、「私も変わるから」とか、「我慢するから」という自己犠牲的な取引、「期待の交換」が行われるかもしれません。
それぞれが何かを犠牲にするなら、イーヴン(平等)というわけですね。

ありのままの相手と関わるのではなく、自分の思うその人に「なってもらおう」とコントロールするのです。

そのコントロールは、直接的な命令とは限らず、怒る、泣く、不機嫌になる、落胆してみせる、話し合いをし説得しようとする、気持ちが離れているのを示す、など……色々なパターンがあります。

そういった心の動きや、表現を「恋愛につきもの」と捉えがちですが、よくよく動機を眺めてみると、
「自分の期待を、相手を使って何らかの形で叶えよう・折り合いをつけようとしている」自己中心的なものだとわかるはずです。
そして、そんなことに力を注いでしまうのは、誤った観念を信じているからです。

あなたが「今」幸せでないとしたら、それはあなた自身の選択です。
誰かのせいではありません。
だからこそ、それを「変えられる」のもまた、あなた自身なのです。

「誰かに、幸せにしてもらう」ということを叶えるために、策を練るのではありません。
その努力は、方向を誤っています。
ところが、地球上の多くの恋愛では、自分の気分や幸せが「相手次第」になり、「相手にその責任を転嫁してしまう」という傾向になるのです。

「私の幸せ」という期待をあなたに差し出す代わりに、私も、「あなたの幸せ」という期待を叶えましょう。その期待の内容は、ひとりひとり違うけれども、二人で力を合わせて、叶え合いましょう! 

……興味深い試みですが、これは「愛」とは基本的に関係がありません。 

「あなたのために」我慢した、あきらめた、と思うとき、愛ではない。  

恋愛以外の「愛」においても同じことが言えます。

たとえばお父さんなり、お母さんなり、保護者なりが、子どもに、
「私は、あなたのためにこれだけのことをあきらめた。自分をこれだけ犠牲にしてきたんだ」
と言ったら、それは「愛」ではありません。
たとえ、「それはあなたを愛しているからなんだよ。」と付け足したとしても、同じです。
むしろ、本人が「愛」とすり替えて伝えている分、より悪いケースとも言えます。

もし、そんなことを子どもに言い続けたら、子どもの心には罪悪感が生まれる可能性が高いです。それは、抱えさせられた「借金」のようなもので、愛とは別物です。

その負担と同時に、愛するということは、自分を犠牲にすることだという観念(本当に愛しているなら、自己を犠牲にしなさい)も、子どもは取り込んでしまいます。
そして、自分が学んだ愛と同じように「愛」について考えます。
「愛」について倒錯した観念を抱くようになり、自分自身でそれを発見して乗り越えるまで、苦労するかもしれません。
これは地球上に珍しくない観念なので、自身の恋愛や愛の経験において、同じ観念を持った「お相手」を見つけるにも、事欠かないのです。

でも、「観念」は「観念」です。
無条件に「そういうものなんだ」と信じることはやめて、見つめてみましょう。

「誰かのために、何かを犠牲にした」と思っているとき、それは愛ではありません。
もし、あなたが自分自身の内から湧く愛によって何かを選択したなら、そこに「犠牲」という感覚は伴わないのです。
「自分がそうしたいから、そうした」というだけのことです。

もちろん、相手からの感謝なり、同じような犠牲なり、何事かを期待して、それらを「回収」しようとはしませんね。

あなたがもし、あなた自身の望むように人生を生きていなかったとしても、その責任を「誰かのせいにはしない」ということが大切です。
どのような理由づけをしたとしても、最終決定をするのは自分自身です。
自分が自分の本心に沿わない決断をしたことを「愛」と混同するなど、もってのほかです。

愛のために自分を犠牲にしたと主張するとき、愛という口実を利用し、自分から逃げているのです。

同情は愛ではない

ここで、「自己犠牲」の観念について話が出たので、さらに踏み込んでおきます。

私たちは「同情」もまた、愛と混同してしまうことがあります。

誰かをかわいそうに思う。そばにいてあげなければ、とか、手助けが必要だ、とか、この人には自分しかいない……などと思う。

それは、どんなにエネルギー的な「引き」が感じられても、「愛」とは別物です。

逆の立場で考えてみましょう。
もし、あなたが、そのような同情の思いから、誰かに「情けをかけてもらっている」と知ったら、うれしいでしょうか。
そういった関係でも必要だ!手放したくない、と思うなら、あなたはそのとき「自分は弱い、力が無い」と信じているのです。

内側で感じていることに目をつぶり、自分の思う「愛の形」を実現できれば、その方がいいと思い込んでいることもあります。

ひとりより、ふたりの方がいいとか。
どんな内容であっても、相手から「思われている、注意を向けられている」という事実がある方がいいとか。
結婚などの「形」を取った以上、壊さずに続けている方がいいとか。

詳細はそれぞれですが、恋愛は「同じ観念を持っている者同士」で成立するので、片方がそのような観念を持っている場合、もう片方もその「受け皿」となる観念を持っている、つまり、根底は同じことを信じているということが多いのです。

カップルのどちらかの観念が本当に変わったら、相手も同じように変化するという場合以外、噛み合わなくなって、物理的に離れたり、別れたりすることになるでしょう。

同情から人へ関心を向けるとき、「愛」と混同しがちですが、
実は、相手を「力のない者」と見ているのだということに気づいてください。

その人の持っているパワーを、「ないものだ(不足している)」として、自分が補ってやらなければならないように感じているのです。
それは相手の「自分には何かが不足している」とか「無力だ」という観念とぴったりマッチして、その観念を両者に持続させます。

あなたが「自己」にチューニングし、魂としての自己のまま状況を眺めると、そのような見方や動機は見当違いということが明らかになります。

これは、人を助けてはいけないという話ではありません。
ただ、あなたが何かをするとき、あなたは「自分がそうしたいと望むから、する」のです。
それ以外の理由はすべて幻想です。
あなたのコアは他者とも繋がっていますが、あなたが繋がることのできるすべての「源」は、内からやってきます。外に見える他者は、いわばその「表現(影)」なのです。

恋愛や結婚に見られる「契約」

それぞれが、それぞれの望む人生を生きること、それが本当の「協力」です。

この点において、現代の「恋愛」や「結婚」にまつわる観念は、大きく逸れています。

たくさんの人が気づいているでしょうが、たとえば、結婚という制度は人間の決めた「契約」です。
人間の方が先に存在していて、その契約は、後から作られました。時代によっても、ルールは変わりました。
契約の内容自体が「人間の性質」に沿っているというわけではありません。
あるシステムにとっては、そのルールがあった方が都合が良い、メリットがある、と判断して施行されたわけです。

本当のところ、求めるメリットや人生の内容は個人ごとに様々です。もし、各々の心の信頼を元に、関係性の中で独自のルールを定めるなら、それで問題ないのです。
ただし、関係性の中にいる人全員の合意が必要ですが。

たとえば結婚制度では、結婚したら生涯にその相手一人と関係を持つルールです。
何を「浮気」と見なすかは人によって異なるでしょうが、もし、契約者が「別の人と関係を持った」と認められた場合、契約違反なので、裁かれるのです。

ところが、個人個人で、自分たちのルールを定めていた場合、どうでしょう。
中には、パートナーとの間に、「お互いに、恋愛は自由」という合意を持つ人も出てくるかもしれません。
このとき、もちろん両者が心から合意しているということと、隠し事がないということが大切です。また、恋愛の相手になる人たちも関係性の一員になるので、彼らもそのことを理解し、心から合意している必要があります。全員に対して正直な関係です。

誰かを欺いたり、嘘をつき続けて関係を保ったり、「外に見せる姿と内面が全く違う」ということをしていると、エネルギー的に不調和になります。

逆に、物事の外観や「形」に関係なく、それぞれの心が調和しているなら、関係性の中で合意した独自のルールを共有することはOKなのです。

恋愛においても、多くの場合、結婚制度に準ずる「ルール」が個人間で課せられています。
でも、あらゆるルールよりも本来は「何に価値を置くか」が大切で、誰もにとっての「真実」がそこにあるわけではありません。

誰かを「ルール」で縛ることで、生涯一対一の関係を築くということの不自然さに、思いを馳せたことはないでしょうか。

あなたがもし、パートナーのことを思うと、たとえ誰かに好意を持ったとしても「ここまで」と線引きしたいと自然に感じるなら、また、相手への影響や、二人の関係の信頼に影を落とすことが「自分の望まないこと」だとはっきりしているならば、あなたはきっと、親密な関係をパートナー以外と持つことはないでしょう。

でも、それはあなた自身の決断によるのであって、「ルールがあるから」ではありません。
そしてあなたは、皆があなたのように考えるわけではない、ということも知っているので、別の価値観を持っている人を見ても非難する思いは生まれません。

それは自分の相手、パートナーに対してであってもそうです。
パートナーも、あなたとは異なる独自の存在だからです。
もし、あなたの「期待通り」の考えをする人でなくとも、それはそれとして、あなたはありのままの相手を認めます。

もし、ありのままの二人では合意できないことがわかったら、「相手もしくは自分を変えて」なんとかしようとすることは苦難の道です。
それぞれ歩みたい人生が異なるとき、離れることは幸せへの決断ですし、そう決めることは、それぞれへの祝福で、愛です。この点で、関係性の終焉や離婚などをネガティブに捉える風潮は間違っています。

「自分がどう考え、どう生きたいか」を体現することが大切なのです。
その結果として、死ぬまで、お互いにずっと相手との一対一の関係を築いていた……とわかったら、それはそれで「こういう人生になったね!」と後から結論が出ます。
でも、それはルールに従って無理した結果ではないですね。

「永遠に続く一対一の“運命の人”信仰」を心に持っている方がいたら、それが本当にあなたの望むことなのか、その要素の一体何に憧れているのかを、見つめてください。愛にまつわる、思いがけない観念が発見できるかもしれません。

魂視点の愛にとって、形や体面は意味がない。

あなたが純粋なエネルギー的存在の視点に戻ると、あらゆる「体面」は意味がないと悟ります。

地上の観念では「悪」のように見えていたものが、実は「善」なる動機によって起きていたと気づくこともあれば、
あたかも愛だと思い込んでいた物事が、自己保身や自分の観念に沿っていた、とわかることもあるでしょう。

今経験しているこの世界では、言葉と心が一致しなかったり、形と中身が別々だったりすることが起こり得ます。それが可能な世界です。

でも、あなたは「今も」純粋なエネルギー的存在なので、本当は自分がどう思っているか、何が起きているか、ある部分では「わかっている」のです。

だからこそ、あなたが「自分自身を偽るとき」苦しくなるし、
「自分以外のものになっているとき」本当には充実や幸せを感じられないのです。

「幻想」にしがみつくよりは、「真実」を生きる方が簡単です。
仮に、他者の賛同が得られなくても、あなたの周囲の人々の常識と異なっていても、あなたはあなたの真実を生きることが最も「快適で、た易い」のです。
そこから逸れている状態にあるときの、苦しみと比べたら。

地球上で美化されている「恋愛」または「愛」にまつわる観念も、そろそろ大きくシフトする時期に入っていると、私は感じています。

その一環として様々な「毒出し」の機会が浮上してくるかもしれませんが、世の中を見て動揺する必要はありません。
あなたは、あなた自身の心にフォーカスすればいいのです。

外に起こることは、何らかの形であなたに奉仕してくれています。
それを見てあなたが何を感じるか、どう生きていきたいと気づくか、が大事です。

いまだ続いて見える「愛の観念」や「自己犠牲の観念」に違和感を覚えていたら、どうぞその感覚を打ち消さず、「本当の気持ちに沿って生きる」と決められますように。

あなたの内から湧く魂の欲求を、“エゴ”と判断して退けないでください。
それはあなた自身にとって大切なこと
なので、たとえ退けても、いつまでも、あなたを追ってくるでしょう。

愛の観念や自己犠牲の観念に惑わされて、自分の生きたい人生を知っているのに、それを埋葬しようとしないでください。そうすることは自分を殺すのと一緒です。

恐れは、恐れている間は力を持ちます。
あなたが恐れのレベルよりも高い位置から物事を見るなら、恐れは幻影なのです。


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