こちらは従来書こうとしていた流れに沿った方の記事です。
「幸せや充実感の裏で起こる恐れと、その恐れから自由になること。」
前回は同テーマで先に、変化球が来ちゃいましたからね(笑)
◆「別次元での癒しと、あっちの仲間や家族」↓
その記事の最後でもふれましたが、幸せや充実感、よろこびといった「ポジティブ」な感覚の裏で起こりがちな「恐れ」についてお話しします。
得ることは失うこと?諸行無常のことわり
私たちが今体験しているこの世では、何事も同じであり続けることはありません。
「時間」とともに、物事は刻々と変化します。
あなたの体が毎秒毎秒変化していることはもちろん、場所も、物も、人も、そして様々な状況も変わっていきます。
もし、私たちが常に「今」というポイントのみにしか意識をフォーカスできない存在だったとしたら、「どこか別の地点」と「今」とを比較することができないので、「変化」という認識は持たないでしょう。
私たちが何かの「推移」や「変化」を感じられるのは、「今」と認識している地点以外にある「別の現実を参照して」、それを「今」と比較する能力を持っているからです。
たとえば、あなたがどこかの街を久しぶりに訪れて、「にぎやかになったなぁ」と思うとき、あなたの意識内では比較対象として「過去」の同じ街の風景が浮かんでいます。
そのように、何かを参照しながら今を見るからこそ、「変化」という見方も生まれます。
現実を、時間の流れに沿った「連続した体験」と認識することがルールとなっている私たちには、いわゆる「諸行無常」は避けられない理(ことわり)です。
そして、それが身にしみていると、「得ることは失うこと」という発想を抱いてしまうことがあります。
何かを得れば、やがて失う。
幸せがあれば、不幸がある。
よろこびは、長続きしない。
などの観念です。
これらの観念は、この世界においては自明の「事実」であるかのように信じられていることも多いのです。
「今」を味わわずに危険と隣り合わせ?
これらの観念からやってくる「恐れ」が強すぎると、あなたは「今」を楽しむことができなくなってしまいます。
常に、幸せやよろこびの中に「翳り」、「かすかな痛み」、「不安」などを伴うことになるのです。
たとえばあなたが、人との関係性を通して「愛」の中にいることを実感し、幸福を感じたとします。そのときに、
「私がこんなに愛を感じる相手は、この人以外にはいないだろう」とか、
「この人のほかに、こんなにも私を愛してくれる人はいないだろう」などの恐れが出てきたとします。
すると、あなたが「今」味わっているはずの幸福は、たちまち「不幸」に備える前段階のようになってしまうのです。
「形」は変わるし、人の命には限りがあるし、失いたくないものを前に、「変化する」ということがいかにも恐ろしく感じられるかもしれません。
これだけの幸せの後に来る喪失感はいかなるものだろうか……と、前もって予期して、怯えるのです。
最悪の場合、あなたにとって幸福とは、恐怖を含む「危険なもの」になり、その恐れによって幸福自体を遠ざけることもあり得ます。
また、たとえば、
「これほど自分にとって充実した仕事はない」とか、「この活動は何よりもやり甲斐があり、自分をいきいきさせてくれる」などのポジティブな思いの裏にも、「でも、いつかそんな適職を失うのでは」、「もし、この活動を続けられなくなったなら」などの恐れが生じ得ます。
今味わっているポジティブな思いに、恐れをわざわざくっつけてしまうとき、
あなたの意識は「今」に集中していない上に、信じている観念による「本当にそうなるかどうかはわからない」恐れている状況を、リアルに味わっています。
これは、「あるよろこびから、別のよろこびへと移ることができる」、「心からの充実は、形は変わってもやはり心からの充実へ導く」ということが信頼できていないからです。そのことを忘れてしまっているからです。
あたかも、ポジティブとネガティブは交互に味わわなければならないかのように、信じてきたのかもしれません。それが「法則」であると考えられている場合もあります。
しかし、それはただの「観念」なんですよ。
すべてがちょうどいい今を信頼すると、いつもちょうどいい
さらに理解を深めるために、簡単なたとえを挙げましょう。
あなたは子どもで、遠足をとても楽しみにしていました。
ところが、遠足は雨で中止になってしまいました。
遠足という「形」は変わったのですが、代わりに皆で集まって室内で行ったレクリエーションがとても楽しかったのです。
そのとき、そんな状況でしか味わえなかった、独特の味わい。
あなたは、それも楽しみました。
もし、このとき、「遠足が中止になる」という「形」をネガティブに捉えて、恐れていたら、恐れがその通り実現してしまったということ、それ自体にあなたは気落ちして、その後の展開を全く楽しめないかもしれません。
「もし、遠足に行けていたら今頃は……」、「こんなの、遠足で味わうはずの楽しさに比べたら……」と、「今」起こっていることをここにはない何かと比較して、楽しめなくなります。
あなたが心の中で比較しているのは、あなたが想定している「別の現実」であって、「ここ」にはないものです。
すると、あなたの体は物理的には「ここ」にいるのですが、意識のいくらかは別の現実に流しています。自身のエネルギーを分裂させているのです。
「今」が最高のもの(十分なもの)ではないだろう、という恐れがあるからです。
そういうとき、本当には「ここ」にいないし、今を味わい切ることもできません。
何かを恐れるとき、自分のエネルギーのいくらかをその「恐れの現実」に注いでいます。
意識の中では、すべての現実は同時に存在しています。
それが「いつ」起きていることであれ(たとえ今の現実に起こっていることではなくても)、あなたのリアリティーとして「今」経験されるのです。
あなたは「形」に属していない
「形」は変わります。
この現実を経験している「私」から見ると、同じではいられません。
でも、あなた自身然り、あらゆるポジティブな事柄もまた、「形」に依存しているわけではありません。
あなたは、色々な形での幸福を経験し、よろこびに謳い、充実を味わいます。
すると、変化も祝福であることに気づくことができます。
この経験の中での「私」という視点から見て、「想定していたことも、想定していなかったことも」、より大きな「私」の視点からはちょうどよく起こっています。
ですから、「今」味わっていることに対して、その裏にわざわざ「恐れ」を準備するのは、「余計」です。
そうしてしまうとき、自分を全く信頼していないということ、「観念」による癖が出ているのだということに気づきましょう。
あの楽しさから、この楽しさへ。
こんな幸福から、また別の幸福へ。
あなたの人生にはたくさんのベスト(最善)な瞬間があり、それぞれの「形」は違っていても、あなたが味わう感覚そのものに優劣はないのです。
形の変化を恐れることをやめると、あなたの内側から湧いてくるよろこびは決して絶えないということがわかります。
絶えることがないそれを遮ることができるのは、あなたの作る「こうあるべきである」という観念の方程式のみ、です。
あなたの幸福やよろこびが、あらゆる形を取ることを、許しましょう。
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