週末に花粉症の大爆発を迎えたvanillatreeです。
毎年起こってることなんですが、いっつも、「喉元過ぎれば」で、
発症の日を迎えるまで忘れてるんですよねー。
えっ、まじ!?
と思うような激しい症状が日曜日にいきなりやってきて、
それにともない、自分の精神面を見つめるきっかけの出来事がありました。
花粉症は、毎年あわよくば「いつのまにか治っていたらいいな♪」と、
思っているんだけど、春になると律儀に発症してくれるんです。
それで、今回の発症の日に併せて自分が「引っかかった」出来事、
そこに関連した精神的な部分をよく見てみると、
ああ!と思ったのが、自分の、
しんどい自分を排除しようとする
という側面。
前回の「アストラル・ストーム」の記事にも通ずるものがあるんですけど、
要するに、自分が具合悪くなっちゃうと、
どうも奥底に罪悪感があるみたいなんですよ。
コンディションをできるだけ「気のせいだ」と思おうとしたり、
そこに「気をやらないこと(汗)」に集中したり(←やせ我慢な場合、これも抵抗)、
症状のはじまりをありのままに認めず、
「やだな。ないことにしたい!」って思っているらしい。
(花粉症に限らず。ちらっとあらわれたサインを無視して抑えようとする。)
んで、「サイン」の声は大きくなって、大きくなって、大きくなって…
早めに気づこうよ(ノ´▽`)ノ ⌒☆
(「抑える」こと、「見ないふり」、って怖れですよね。
それに直面すると大変なことになると予期しているわけだから 笑)
なんでそうなるかっていうと、
体調を崩してしまう、コンディションの乱れる自分=悪。
具合が悪くなる自分を、どこかで裁くんですよね。
で、それが、人と一緒にいるときだとひどくなるんです。
どうも、相手に迷惑をかける存在になるのでは…と怖れているらしい。
そういうときこそ、自分が弱っている、つらくて困っているわけだから、
そばにいる人に助けてほしい、頼りたい、
と、本音では思っているのだけど、
上記のような理由で、
その気持ちをきっと素直に、ストレートには表せていない。
「察してほしい」という域を出ていないんですよね。
そして、コンディションの悪い自分、という、
それ自体はただの状況であるものを、
なにゆえそうもジャッジして、切り離そうとするか?というと、
そこには、
「人の役に立っていなければ、存在している意味がない」
という信念が根強く残っている気がするんです。
つまり、
私は、役立っているのだろうか?
ここに存在していていいのだろうか?
そんな疑問、存在への自信のなさ、揺らぎが、
「具合が悪くなる」ときに、顕著にあらわれるのです。
私、迷惑かけてしまうのかな…みたいな。
元気で、人を楽しませたり、人にやさしくしたりできているときの自分は、
きっと気に入っていて、いい気分で、許可しているのですね(笑)
ダウンしてて、なんか体調も落ちていて、
「ひー、もうダメ!」って思っているようなときの自分は、イヤなのでしょう(笑)
迷惑をかけるくらいなら消えてしまいたいわ!
そんな風につぶやいているパーツがどこかに潜んでいる。
この平た~い世界観(笑)
自分の基準で役に立つだの、立たないだの、存在意義だの、ねぇ(笑)
結果、しんどいときに、
場合によっては面倒くさがられたり、批難されてしまったり…
そんな体験を度々してきました。
あぁ、ある意味自分の信じていることの再現だったなぁ~と思います。
一方で、よく書いているように、
私は自分の体を通して色々なことを知る傾向があるので、
コンディションは揺れやすいタイプです。
(いわゆる病弱というのとはまた違うんですよね~。)
感受性も強いので、「大パンチ」のような意味不明の症状がやってきて、
一時的にぐらぐらになることもあります。
そういう私が、こういう「学びのテーマ」に直面していること、
面白いと思いませんか(笑)
この「メイワク」問題は、ある時期のテーマでした。
私は、この世界にとって意味はあるのか?
もしかして自分は、周囲の人や社会のお荷物なのか?
そんなことに心を迷わせていたことがありました。
そういうときは架空の「みんな」の目線に縛られているわけだけど、
それってほんとは一体誰のことなのか?
果たして、そこに力を預けることは自分の望みなの?って、
その時期、何度も問い直しましたね。
何にも役立たなくってもいーよ、
「役に立つ」っていうコンセプト自体、人によって異なるじゃん、
絶対的な価値なんてないんだから、
そんなの人によって変わるんだから、
「迷惑」っていう概念も疑ってみればよかったね。
☆☆☆
あなたが「弱い」と思って、自分を裁くことに精を出している間も、
そこには本当は、受け取れる宝がすでにあるよ、
目を逸らしていると、学びたいことに覆いがかかってしまうよ。
「ギフト」の方に目を向けてはじめて、
形は変わらなくてもつらくなくなったり、
それとは違った“やり方”にも目を開くことができる。
「課す」ことをやめるとバランスがとれなくなる、余計乱れる、
コントロールを失うっていうのは大きな勘違いで、
重圧から放たれれば放たれるほど、私たちは創造的になり、
調和に向かっていく。
これはよい、これはダメ、ではなく、自分を信頼せよ、
表現したいことは表現して、
自分を通して表現されるどんなことも、怖れるな。
そこにいかなる罪悪感も持たずに、学べ。
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