こんばんは~。
今日はひさびさに☆ヘルパー存在・天使☆のカテゴリを使ってみました。
ずいぶんと放置していたなぁ、という気がしますが(自然にそうなったのだけど)、
その理由もあわせて気づくことがあったのが、今回のメッセージです。
タイトルは、「素直さを妨げるもの」です。
緑の葉っぱに赤い花が映える!
私たちが素直さを発揮できないとき、
素直な自分のままでいられないとき、
妨げているものは何なのでしょうか。
そこに、「恐れ」があるのです。
恐れは様々な形を取り得ます。
他者への思いやり、気遣いという形を取ることもあります。
あの人は、こんなこと望まないに違いない、
と他者の気持ちを思いやるという形を取ったり、
私がこんな風だったら、人に迷惑をかけてしまう…と考えるなど。
あるいは、「プライド」のような形を取ること、
「常識」や「大人であること」に重点を置くという姿を取ることもあります。
バカにされたくない、おかしな人と思われたくない、
世間知らずだ、無邪気なやつだと思われたくない…とか。
常識的に考えたらこうなのだから、とか、
もういい大人なんだから○○しなければ、などもそうですね。
そうやってどんどん「恐れ」を大事に抱えていくうちに、
私たちの素直さは、遠い憧れのようになってしまいます。
自分の中にあるものなのに、発揮できない。
それを表現できない。
もっと行くと、「自分で認めることも怖くてできない」。
衣装に邪魔をされて、自分のことがわからなくなってしまうみたいに。
そんな素直な心が自分の中にあるということを、
認めるだけでも怖いのです。不安になるのです。
だから、見ない。気にしない。追いやってしまう。
たとえば、「見えない世界」とか、スピリチュアルな現象、
不思議な世界なども、それに該当するでしょう。
なぜだか、恥ずかしい。
うぶな奴だと思われてしまう。
ちょっと、子供っぽい。
深入りしないに越したことはない。
だって、大人なんだから。
常識的な現実に取り組むことこそが大事なんだから。
様々な、もっともらしい言い訳を用いて、
私たちはまるで、「純粋な心」を恥じるみたいに、
自分の中にあるピュアな部分を慌てて隠してしまう。顔をそむけてしまう。
なんであえて悪ぶるのかわからない。
なぜ、本心と違うふりをしなければならないのか、
なぜ、素直な自分を抑えつけなきゃいけないのかわからない。
でも、そうしなければ不安だ。この世界に適応できなくなりそうで。
自分が、全く、突拍子もないことを考えているようで。
そう気づくことがあったら、そこにある恐れを見つめてごらん。
あなたの中にある、本当の魅力を見つめてごらん。
正面から向き合うと、まぶし過ぎるかのように思っていたもの。
だから、心の奥に隠したもの。
☆☆☆
このメッセージは、スピリチュアルな分野に限らず、
私たちの人生全般に対してのメッセージなのですが。
と同時に、私が最近、自分について気づいたこととも共通していました。
私は、☆スピリチュアルカウンセラー☆ではあるけれども、
あまり突拍子もないというか…物理的現実と整合性のない、
一般的にわかりにくい話はしないようにといつも考えてきました。
けれどもそれは自分への「ブレーキ」にもなっていて、
そのブレーキは一見、「人のため」のようにも見えながら、
自分の恐れとも関連しているのだと察しがついていました。
自分独自の世界というのを信頼しすぎると、
「はいっ!自己満足おつかれさまー!」
という感じで、それが特に、
「目に見えない、万人が確かめることは難しい分野」になればなるほど、
「好きにやってなさいよ」
という扱われ方になっていくのではないかと。
言葉にするならばそんな感じのことを漠然と思っていて、
見えない世界に関わっているとは言っても、個人としては、
いつも適度な「距離」を保つようにしていたのです。
唯一、「夢」というのは誰もが経験したことのある現象なので、
それを語ることには抵抗が少なく(どんな不思議があっても夢だからOK)、
夢を語ることと一緒に、関連づけて日頃の思いも語ることで、
ちょうどよい表現が成り立っていたようにも思います。
それに対し、ヘルパー存在だの、精霊だの、天使だの…
ということは、あまりそれだけを記事に書くのは得意ではないというか、
特に意識せずとも、極力「優先順位を下げる」ようにしてきました。
それは正直、私自身にとってもまだまだわからないことが多く、
得体の知れない部分もあったし、
(その点で言えばまだ異星人の方が書きやすいということが面白い! 笑)
あとはやっぱり、ある種の人々には最も「否定されやすい」分野、
ということがあるからです。
彼ら(人間の認めていない存在)が、
☆夢や体外離脱、明晰夢☆に登場したときは、
夢ということで書くのがぐんと容易になるんですよね。
免罪符をいただいたみたいに!
…と、考えると、なぜそこに「免罪符」が必要になる?
と、当然気づくわけです。
あぁ、私の心の中では、
それについて語ることはまだ「自分が完全に許可してはいない」のだ、と。
いえ、語ることはというよりも、「向き合うこと自体が」と認めるべきでしょう。
最近までは、ずっとパートナーと2人暮らしをしていたこともあって、
私は、だんだんと、プライベートの生活の中で、
「見えない存在とのやりとり」に重点を置かなくなりました。
逆に言えば、ひとりだと、彼らと語る機会は多くなりそうですね!
今私はひとりではなく家族と共にいますが、
家族とは長年、既知の仲というか、さすがに家族なだけあって、
パートナーとの生活時よりもひとりで思索する時間が増えました。
すると、「待ってました!」とばかりに、
見えない存在たちの「アピール」が始まったのです。
アピールというか、もっと言えば私自身の心の流れがそこに向いたのでしょう。
彼らはわざわざ「一緒に語ってくれなくなったね!」なんて、
恨み事を言ったりはしませんが、
「あぁ、そういえば私はだいぶ、そういう交流を忘れていたなぁ」
「あまりにも、放っておいて、見ないようにしてしまったなぁ」
ということを、自分で気づきました。
それは生活スタイルとか、誰と一緒に暮らしているかとかじゃなく、
表面に起きている物事は「私の意図に沿った出来事」にすぎなくて、
本当は自分自身が「遠ざけたのだ」ということも、わかっていました。
◆「エネルギーと意図のカンケイ」でも書きましたが、
エネルギーは、関心のあるところに流れます。
私が彼らとの交流に関心を持たなくなったからといって、
彼らの存在は消えやしませんが、
私の世界における彼らの存在感は薄くなります。
絶対に、私の自由意思を妨げるようなアピールはしてこないけれども、
何より私自身、本当は彼らともっと繋がっていたいのに、
この世界を生きながらも、彼らとの経験も共有していたいのに、
恐れがあるから、目を逸らそう、逸らそうとしていたことに気づいたのです。
ひょっとすると何年も目を向けていなかったというのに、
かつて認識していた存在が、よろこびいっぱいで応えてくれたとき、
私は、自分の持っている「この恐れ」をしっかり見ようと思いました。
そこには、何か決定的に、
今の私に必要なキーがあると思えるのです。
一般的には「ちっとも現実的でない」活動の中に、
人生に必要なキーがあるなんて、面白いですね(笑)
でも、そういうこともあるんです。
そして、そう珍しくもないことなのだと感じています。
スピリチュアルカウンセリング個人セッション
対面、スカイプ、電話でお話しします
「個人セッションについて☆」