BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

そのままでいいんじゃない?

この間、新しい職場に就職した人からの電話を受けて、
色々な話をきいてたんですが…(セッションではないです 笑)

途中から、
「新しい環境に入ってみたら、自分のこういう一面を発見して…
こんな部分は克服したつもりだったのに、いまだにこうだった~」

「人から、私はこんな風に見られるみたい~」

等々、自己イメージについての話になりました。

それで、その相談?を受けている間中の、私の返答が、

「うん、いいじゃない別に。」

「それもいいと思うよ。私はそういうところ好きだな」

に、終始!(笑)

相手は、ちょっとちょっと、それでいいの~!?あせ

な感じになっていましたが(笑)


別に知り合いの人だから、身内びいきで…じゃなく、
私は心からそう思ってたんですよね。


最近つくづく思うんです。

人って、そんなにあちこち「直す」べきなの?って。


長所と短所は、見方によって反転する。
この世界には色~んな見方があって、ある人にとっては困ったことでも、
ある人にとっては魅力だったりするかもしれない。


そういうわけで、私は、最近、かなりの頻度でつくづく実感するんです、
「そのまんまでいいんじゃない?」って。


それでね、自分のことも含め、表面的には反応するような、
人の中の「こういうところ嫌い!」っていうのがあったとしても、

あぁでも、そんなこと、本当はどうでもいいなぁ~
だって私は何も知らない。
ただわかるのは、全部含めて結局、愛しいということだけだ

って、根底では感じてることに気づいたんですよね。


自分の反応として、リアルに腹が立ったり、動揺したりしてたとしても、
どっかではもう、
「あ~、それ、自分の見方でしょ」って、思ってるんです。


そうするとね、「痛み」は完全な自己責任とわかっているわけですけど、
ここで矛先を自分に向けて、自分に対しての意地悪をしなくっていい。

感じていることは感じていること。
そのとき、痛みを感じる自分を変えようとはしないんです。
好きに感じさせてあげる。

ただ、痛む自分から逃げないというか、
勝手に発展していく感覚の流れを見守ることが、今の私のやり方です。

最近わりとよく書いていたことですが、出てきてしまった痛みに関しては、
フタをしよう、フタをしようとしないで、黙って、
そのフィーリングの根っこまで、ずん!と、「その中に居続ける」んです。


するとけっこう強烈な思い…たとえば「死んでしまいたい」というような、
存在をパワフルに否定する根っこ(ときに言葉。何も出てこなくてもOK)が、
あらわになることもあるのですけれど、

そこまでいく頃には、何かが出尽くして「終わって」います。
体験を通過しちゃって、味わい尽くしちゃって、残留エネルギーがゼロになる。

すると、エネルギーがすっと通って、自分に力が戻ってくるんですよ。


あと、そういう風に、もったり、ゆっくりでも流れてくれたらいいのですが、
スタックしてる(流れてくれない)!という感じの詰まってる感覚があったら、

シンプルに、ストレートに、私は神様にお祈りします。

といっても、具体的に
「あーしてください、こーしてください、これをこのように助けてください」
とは、言わないんですけどね。

特定の結果も期待してない。

ただ、自分の幼少期からの心休まる一連の言葉があり、
それを神様に向かって唱えるだけです。あいさつみたいなものです。


でもね、びっくりしたんです。
その後、確実に、「動く」んです。

コース(『A Course in Miracles』)を勉強してた頃、
テキストに書いてあった言葉とか、レッスンとか、かなりの種類唱えてみたけれど、

なんだか、今になってみると、
自分が子供の頃から唱えていたお祈りが、一番パワフルなの。

たぶん、「私仕様」の、ちょうどいいワーズなんでしょうねぇ。
すっと、通る通り路になっているのかもしれません。

物心ついた頃から、誰に教わるでもなく、唱えていた言葉ですから。


その内容は笑っちゃうくらいシンプルなのですけれども、
皆さんも、自分を落ち着かせてくれる、
個人的な「私仕様」の心の言葉ってあるんじゃないかしら?

本や何かで得た情報を実行するよりも、パワフルな可能性ありますよキラキラ☆


あと、ときには、自分の内の神様に向かって、思ったことを、
直接の「話しかけ」としてしゃべってもいいと思うんです。真剣にね。

どうしても助けがほしい、苦しい、でも誰にも話せない…
そんなとき、神様を相手にしているつもりで、
心の中で本音で話しかけるのもいいと思うんですよ。
隠さずに、洗いざらい。

決まりや「型」にこだわらなくっていい。それより心が重要です。


そういえば、私の大好きな、すでに亡きセラピスト、
ミルトン・エリクソンの両親の、こんなエピソードがありました。


『私の声はあなたとともに』


私の声はあなたとともに―ミルトン・エリクソンのいやしのストーリー
シドニー ローゼン
4931199488


この本の、「不一致」とうタイトルの節からの引用です。

私たちが結婚した当初、妻は私の母に尋ねました。
「お父さんと意見が合わないときは、どうされるのですか?」

母は言いました。
「私は自分が思っていることを自由に言い、そして黙るの」。

次に妻は外へ行き、農場にいた父に尋ねました。
「お母さんと意見が合わないときは、どうされるのですか?」

父は言いました。
「私は言うべきことを言い、その後は黙っていたよ」。

ベティ(妻)は言いました。「それでどうなりました?」

父は言いました。
「どちらかが合わせたよ。いつもそんなふうにしていた」


ミルトン・エリクソンの両親は、ほぼ75年の結婚生活だったそうです。
著者はこうも書いています、

彼らの結婚生活が調和のとれたものであったのは、相互に尊重しあうということ、
自分一人の意見を無理に押し通そうとはしなかったことによるのはあきらかだろう。


私はこのエピソードが好きで、いいなぁと思うんです。
自由に言って、黙るというのがね(笑)

自分を守ろう守ろうとすると、堅く狭い世界になってしまいますよね。

ミルトン・エリクソンの両親のエピソードは、
「我慢しないけれども、やわらかく、柔軟に寄り添う」
いい例だなぁって思います。


人それぞれの美しさ、オリジナリティー、
多種多様のそれを眺めることが、この世界の楽しさであるならば。

「そのままでいいんじゃない?」

変わることにアディクトしなくてもいいんじゃない、って…
前から思っていた。


自然にしていればいるほど、
私たちは、放っておいても変わってしまう存在だからです。

自分にとって不自然なこと、アンバランスなことであればあるほど、
それを保つのにかえってエネルギーを使っているのですから、
自然の摂理で、力を抜けば、心地よいところに流れ、収まるのです。

ここでもまた「自分という楽器」への信頼、ですね☆


それでは、また次回~☆


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