地球という舞台設定では、
「せつない、悲しい」が人気があるのではないかと思う。
二元性というのがベースにあるし、
時間の概念もあるから、「始まり」と「終わり」の感覚もある。
陰影をつけることで味わう体験は、確かに際立っているのかもしれない。
でも、そこに中毒しているような向きもあるかもしれない。
人気のあるドラマやストーリーを眺めると、
「せつない、悲しい」が含まれるのは、必須の要素にすら見える。
そういう「人間的ドラマ」がいかにもてはやされるか…、
違和感をおぼえたことはありませんか。
私だけですか?(笑)
「なんでそんな悲しさを追いかけるのだろう?
なんでそんなにせつなさ=美しさみたいに、描くのだろう?」
と、思ったことはありませんか。
私は、最近思う。
意思(Will)を持っているということと、執着は違う。
変化そのものに、本来、悲しみはともなわない。
そこに付随させている価値観、
私たちが参照している「思い、観念」が、判定を下すのだ。
意思があって、それが「創っていく力」だとしても、
結果に執着しなければ、「悲しみ、苦しみ」は生まれないのでは。
善悪で判定するという癖がなければ、
「こうでなければならないのに」という強い執着がなければ、
そういう感じ方は生まれないのでは。
私は内から湧いてくる望み、希望を持たないように、
と書いているわけではありません。
むしろこういうことです。
たとえば、あなたに何らかの望みがあって、
一見それに沿わないような結果を見たとする。
そうしたとき、悔いる、悲しむ、せつながる、そこに否定的意味を与えて苦しむ、
というのは、真っ当、正当なようでいて、そうでもない。
それは自分のものの見方の中に自分を閉じ込めてしまう。
そうするかわりに、
自分はどう在りたいか、
そもそも、もとの望みの「本質」は何であったか、
「細部」にこだわるのではなく、本質に心を合わせながら、
そちらにチューニングするとき、きっと「悲しみ、苦しみ」の中にそう長くはいない。
自然に湧いてくる感情を抑えよとか、否定せよとか、
切り捨てよとかいう話をしたいんではないんです。
ただ、「自分がそれに魅かれる間は、それをし続ける」
…ということについて考えています。
悲しみ、苦しみ、
地球体験舞台では、そのネタ(材料)探しには、こと欠かないように見えるでしょ。
でも、本当は、地球っていう舞台じゃなく、
設定を変えたとしても、
自分が同じ心の構造でいる限りは、似たような世界をつくるかもしれませんよね。
とりあえず、今体験しているここの私で考えると、
やっぱり「有限」という考え方が、
それらをおのずと「リアル」に見せていると思います。
有限という概念は、学習には役立つ効果があるのでしょうが、
「有限なのだから大切にしよう」と思うよりも、
「無限なのだけど、尊いから、大切にしよう」と思う方が、
私にとっては理にかなう気がするんです。
たとえば、無限の豊かさがあるから、それを知っているからといって、
何かを粗末に、ないがしろに扱う人がいるとしたら、
つまり「大切にする」という意識が欠けていくとしたら…ですね、
それは「無限」という理解のせいじゃなくて、
ただ単に、「生命の輝きや尊さについて未熟なだけ」と言えませんか?
何かを失う、とういう考えが、私たちには脅威になっていますよね。
でも、尊さ、美しさ、大切さ、そういうものと、
失う感覚、「悲しさ、せつなさ」をセットにして、混同する必要はない。
何も失われてはおらず、変化しているだけであるのに、
その変化自体に執着し、「善悪」の判定をくだしたところから、
苦しみは始まるのではないか。
自分の本質的な「意思」が川底の流れだとすると、
苦しみを生む「判定」や「執着」は、川の表面をくるくる回り、
蛇行したり岩に張り付いたりしてしまう葉っぱのような感じです。
人生があるということは、「進む」意思はあるのです。
そこには希望があります。
それはあなたの川底を絶え間なく、力強く流れているのです。
私は今、見たいです。
悲しみとか、せつなさの霞を、かけたくなくなってきています。
それら霞を通すよりも、クリアーに、
変化の根底にある本質を見たい。
そこで自分は何ができるのか。
今、どう参加しているのか。
そちらの方に、気を配りたい。エネルギーを使いたいなって。
それでは皆様、よい週末をね!
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