今回は、「物事の先にいる『人』は?」というテーマでお届けします。
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私たちはときどき、物事の先に誰か「人」がいること、
「対、人である」ということを忘れてしまうことがあります。
たとえば、こうしてブログを書いていても、
読んでくださっているひとりひとりの姿を、私はじかに見ることができませんね。
すると、その先には様々な「人」がいるのだと理解していても、
それを実感として失ってしまうことだって、可能ですよね。
さらに、その先にいるであろう人々を個々の人間としてというより、
集団の幻影のような「読者像」として思い浮かべることだってできてしまうでしょう。
(これはたとえであって、実際の私の場合は、
セッションや講座を通して読者の方々にお会いできる機会もあり、
そこに陥ることは無く、恵まれているのですが。)
あるいは、あなたが何かの製品を使っていて、不良品だったとします。
それで「修理センター」や「お客様窓口」に電話するとき…
「対・企業」と話している、製品の製造元と話しているという気持ちが強くなり、
その先にいるのは1人1人の人間だという意識が、弱くなるかもしれません。
これはもちろん、各例の「逆側の立場」から見ても同様のことが起こり得ます。
「○○のサイトで□□を書いている、ブログ主…」
「何々のユーザー(購買者)たち…」
そんな風に見てしまうことで、
常にその先に1人1人の「人間が」存在するという実感が、薄れてしまう
こともありえるのですよね。
そのどの人も、自分と同じように生きた生活のある個々の人間なのですが、
私たちは容易に「くくり」に入れてしまう上、
あたかもその「くくり」が実体として存在するかのように振る舞うことがあるのです。
政府が…お役所が…企業が…ああいう職種は…
○○十代(年齢)の人って…○○人(人種や国)って…△△な人たちは…
それはそれは沢山の「くくり」がありますよね!
それがただの「くくり」であって、人間が作った便宜上のものであり、
はっきり言うと幻想、ただのイメージなのだと認識できていればいいのですが。
あたかもそちらこそが、ひとつの生命を持つ実体であるかのように、
マインドの中では錯覚してしまうことすら起こり得るんです。
また、このベクトルが逆に向いた場合には、どうなるでしょうか。
物事の先に常に「ひとりひとり、人間が存在している」ということを意識するあまり、
対人恐怖のような感覚になって、気軽に何もできなくなってしまうこともあります。
こう言ったら、どう思われるかな…?
このように振る舞っても大丈夫だろうか…?
何かおかしいところは、非難されるところは、ないだろうか!?
その先に存在するであろう“人”を想定しては、そんな風におびえてしまうので、
のびのびと自己表現することができません。
そして、このケースもやはり、実体ではなく自分の心の中にある、
「幻想上の相手」に向き合っていることに変わりはないのです。
はじめの例とこちらの例、どちらにしても偏っているのがわかりますよね。
では、
その「真ん中」にあるのは一体何でしょうか?
それは、
あなたが向かい合っている「人々」は、個々の独立した人間でありながら、
同時にあなたの作ったイメージの反映でもあると自覚することです。
ひとりひとりの人間は、います。
それぞれの声を、あなたは聞くことができます。
興味を持ち、耳を傾け、交流することができます。
同時に、
あなたの世界にあらわれる人々は、あなたの意識を反映して見せてくれます。
もし、あなたが物事に付与したくくりがあって、
それがメインの「送り出す」エネルギーになっているのであれば、
その先にある「人」も、そのエネルギーにふさわしいものを返してくれるでしょう。
その結果、たとえば「だから役所の人間は嫌いなんだ!」
と、あなたは「自分の送り出したエネルギー」を強化するかもしれません。
「○○の人たちって合わないと思っていたんだけど、やっぱりね」
と、また同じ観念の上書きをして納得するのかもしれません。
そのように自分の思い込んだ世界を強固に狭めていくよりも、
自分の「中心」にあるまっさらなポイントに意識を合わせ、
あらかじめ用意した「くくり」のない状態で、
「何を見せてもらえるのかな?」とわくわくすることができたら楽しいですよね。
そして、それは「あなた自身の別な側面を発見すること」と同じなのです。
☆スピリチュアルカウンセリング☆