こんばんは。
今回は「共存のレッスン」というテーマでお届けします。
線路沿いの菜の花。
この世界に自分がたった1人で生きているのではない以上、
誰もが「共存」のレッスンを学んでいます。
たとえ人里離れた自然環境の中で隠遁生活を送ったとしても、
そこで「自然界との共存」を学ぶというように、
何らかの形で共存はテーマになるのです。
その取り組み方や、対象が何になるかには個人差があっても、
私たちは、自分のみを見て自分を学ぶということはできず、
“外側”に見える対象との関係性を通して、自己発見を深めていくのです。
それはちょうど、視覚的なたとえで表すと、
「鏡」の役割を果たすものに写してみなければ、
どうしても自分の顔を見ることができないのと一緒です。
このテーマについて、私個人の日常生活で最近思っていたことは、
私の場合、人生を通して「完全にひとりの暮らしの期間」が少なめで、
けっこう人と暮らすことによって学ぶ機会が多いのだな…
どうやらそういうセットアップを(自分で)しているのだな、いうことでした。
中には、ひとりで暮らすというスタイルを継続させながら、
お仕事や何らかの活動、他の場面で、人や環境との関係性を学ぶ…
という方も、いらっしゃるでしょう。
私の場合は、振り返ると、家族との暮らしからはじまって、
高校時代の1年間は海外での初対面の家族とのホームステイ、
(その前には留学生たちとの1ヶ月の寮生活も)、
大人になってからはそのときどきのパートナーとの2人暮らし、
はたまた再び家族との暮らし、
自分で希望したときも、そうでなかったときも、
つくづく「誰かとの暮らし」の中にいることが多かったのです。
ですから、20代の途中でついにひとり暮らしが実現したときには、
完全にひとりという自由を満喫し、
「ひとり暮らしサイコー!」
と、思っていました(笑)
でも、それも熟した果実がぽとっと地面に落ちるように、
あるときに「もう十分堪能したな」と、悟ったのです。
それ以来、「またどうしてもひとり暮らししたい!」とは思っていません。
ひとりの方が楽だな~と思うことはあるのですが(笑)、
実は、それは自分の「本当の希望」ではない感覚が今は強く、
そうした方が楽な部分もあるけどそれは逃げの発想…とも感じているのです。
なぜそんな感じを受けるのか、
ということをおぼろげにでも眺めてみますと、
私は今も暮らしの中で「共存」のレッスンを学んでいるのだ、
ということに気がつきます。
そして、共存というテーマは同じでも、その「質」が変化していることも。
過去の経験を振り返ると、以前よりは、
相手を「尊重する」ということが何か、よりわかるようになったと言えます。
コントロール合戦ではなく、自己犠牲をするのでもなく、
互いにが相手を敬いながら関わるということが、
ようやく身に付きつつあると実感しています。
しかし、そうなるまでには、
「自分自身への尊重、自分をよく知ること」
これを学ぶプロセスが不可欠でした。
それを知らずしては、相手と関わることもうまくはいかないのです。
加えて、「生身の人と関わり、暮らすという形で密接に経験する」
ということも、糧になったと感じています。
これは別に、誰かと生活を共にしなくても、どんな関わりであっても、
本当に関わったときには言えることですが、
誰かを知れば知るほど、新しい発見があるばかりではなく、
すでに知っている誰かやこれから出会う誰かを、
「より理解する」ことにも繋がるのです。
ひとりひとりに個性があるので、その都度知ること、学ぶことはありますが、
継続して役立つ部分もまたあるのだということです。
たとえば、今までどうしてもわからなかった、誰かの側面があるとして。
あなたがまったく別の相手と、心から関わっているうちに、
元々のその誰かの方に対しても、いつのまにか「理解するための器が深まる」。
「ああ、こういうことなんだよね」と、特定の個人に対してだけではない、
より広い理解が浮かび上がることがあります。
この意味では、あるひとつの関係が終わったとしても、
他の誰かを、何かを、理解することに続いていくのです。
対象が人でも、自然環境でも、動物でも、
本気で関わったとき、あなたは、その対象を「物理的に」失っても、
継続した何かを心の内で育て、繋いでいるのです。
そこに思いを馳せると、個性あるひとりひとり…
代わりの存在しない、かけがえのない存在を心から愛おしく感じながらも、
同時に、
「個」という区別は、意識内のより深い部分では本当は存在しないのだな…
とも感じるのです。
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