BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

エネルギー量の割り振りと関心、情報選択の話。生物たちと私のユートピア

前回に続き、「選択」シリーズとでも名付けようかな、この記事。
今回は、「エネルギー量の割り振りと関心、情報選択の話。生物たちと私のユートピア

先週、夢について書いた記事がありました。
その中で、昨年から集中してエゴ(分離を信じている自我)の根本の解除にフォーカスしていた影響か、不定期に夢のトーンが奇妙であった、との旨を書きました。

「エゴを波立たせると・明晰夢のお連れ様」

beats-and-love.hatenablog.com

それが、意外に、「別な原因」によるものだったのではということに気づきました。
夢の異変に関しては、自身の内で行われている作業への「エゴの抵抗」ではない要因が大きいということです。

面白いことに、それでもなお、あの記事に書いた説明はおおむね合っているのですが、
エゴの根本を解除しようとしたからそれが起こったという経緯ではないということです。

では、一体何が影響していたのかはこれから書きますが、

それに気づくことができたのは、日常の中で導かれるようにある「ささいなこと」を見直す羽目になったからでした。
不自然なことしてるな……と自覚したある事柄について、待てよ待てよ、そうなったのっていつからだ?と考えたら、夢の異変の起こり始めた時期と一致していたのです。

おかげで、自分自身のエネルギー量の割り振りと、選択ということについて、真剣に捉え直し、「内で感じている通りに生きることって大事!」としみじみ思いました。

要らない情報は、本当に要らなかった

その事柄とは、テレビや新聞といったメディアを、私は長年全く生活に取り入れてこなかったのに、昨年から「自分では望まないながらも」それらが日常に食い込んできていたことです。

過去記事でもふれたことがありますが、私は大人になって自分で選択できるようになってからは、テレビは見たいと思わないので置かないし、新聞も取らない生活でした。
これまで、ひとり暮らしも、誰かと暮らす生活も、何年間かずつの単位で交互にあるかのように何度か経験していますが、
一緒に暮らす相手がいても、その都度運良くというか、テレビを普段は見ない人だったり(映画などDVD鑑賞のためだけにテレビは設置しているというタイプ)、テレビを見たい相手の場合でも、たまたま二人で引越した家の間取りや設備が適していなかったりと、テレビと関わらずに済む生活が続行できていたのです。

私はパソコンは使っているので、インターネットを見れば必要な情報は十分入手できます。

テレビのついているときのうるささ、年々大画面になって激しさを増す光と映像などが、個人の好みに合いません。

新聞も、学生の頃などは、新聞を読むようにと学校や親から言われていた記憶があり、その頃はそういうものかと漠然と価値を置いて読んでいたように思いますが、大人になってみると本当に要らないと感じました。

私は、テレビや新聞を見ない方針の家で育ったわけではないのです。

家族はずっとテレビも新聞も見続けていますので、実家に滞在する度、自分にとってのテレビと新聞への違和感は深まるばかりでした。

ちなみに、共通する話題では今から5年以上前、2014年1月にも「情報断食のススメ」という記事を書いています。このときはテレビなしの生活でしたが。
「情報断食のススメ」

beats-and-love.hatenablog.com

さて、昨年引越した後、しばらくの間は、一緒に暮らしている家族の生活はそれとして、私は私のあり方を貫こうと思っており、実行していました。

ただ、困ったのは、食事に使うテーブルやキッチン自体が、テレビに面しているという点です。
生活の中で、キッチンでの作業というのは意外にありますね。
誰かがテレビをかけていると、視界に入り、音も耳に入ることを避けられません。
私にとってはテレビが負担なことはすでに伝えてあるので、家族の中で、せめて食事中はテレビを消そうと提案が出たことがあり、実行した期間もありましたが、もとのもくあみでした。

共存のための、方向を間違えた努力

家族にテレビを見たいと思っている人がいるのに、それを自分の都合で消させることは解決ではありません。それでは私はまず、平和な気持ちになれなかったでしょう。
なお、それ以外は今の暮らしに満足していたので、住まいを移りたいという希望はないのです。

家族に無理を強いず、どう共存しようか?色々試していくうち、私が「馬耳東風」になれるよう努めることにしました。

つまり、かかっているテレビからなるべく自分の注意を逸らすということです。
昔に比べ、「外部」からの影響を受けなくなったのでそれでしのげるだろうと、私は高を括っていました。
テーブルにつく間は、あまりに強烈なテレビの刺激をシャットアウトするため、そのへんによく置いてある今日の新聞をめくるようになりました。
どちらも嫌いですが、テレビよりは新聞に集中する方がましだという選択。
逆に、自分の読みたい資料などは気が散って読めなくなるため、用いません。

正直、新聞を読んでも、すでに私にとっては書かれている内容とものの見方が違いすぎて、結局「ただ文字を追っているだけ、心は入らない」状態になるのですが、「テレビから意識を逸らす道具」の一環として、そうやって一通り目を通すのが日課になったのです。

あるいは、家族がテレビをかけているとき、「絶対に見たい番組だから見ているとは限らない」と気づいたので、そんなときには私にとってましな番組を探し、チャンネルを変えさせてもらうということもしていました。
一例として、どこかの大自然を映している番組などは、そんなに音が騒がしくないし、視界にもマイルドなことが多いです。そういうものへ変えてしまうのです。ただし合間のCMはうるさいのですが。しかも、決して私は楽しんではいないのですが。

そんな風に、自分なりの工夫を凝らしてまもなく1年が経つうちに、それらは全部、じわじわと蓄積していたようです。

最近、いつの間にか受け入れて毎日目にしているテレビや新聞に「相当うんざり」している自分に気づき、思ったよりその負担を流せていないことがわかりました。

聞き流し、読み流しで「入り込んでいない」から影響はさほどないだろうと甘く見ていましたが、1日の中で本当は何に関心のエネルギーを使いたいかという選択を犠牲にしていました。

1日1日は、蓄積すれば「人生」です。

自分の現在の本当の関心や、深めたい情報を深めるエネルギーをよそへやっている。
それも、私だけの選択だったら絶対にやらないことをしている。
つまり、今だって、本気でやめようと思えばやめられるのに、と。

絶対にそうしようと決めれば、テレビのある場所から極力離れることは可能です。
物理的な不便さは生じても、私は私のスタイルを貫くと決めれば、こんな方向違いの努力は必要ありませんでした。
どこかで、「そこまでしなくても」と、自分の選択したいことの方を軽んじていたのです。

これらがはっきりとわかったとき、例の夢の異変も腑に落ちました。

なんだ、欲しくもないニュースや情報を日々取り込んでいるから、それを反映する夢を見るようになったのかと。

「エゴを波立たせると・明晰夢のお連れ様」の記事で、不定期に訪れるようになった異質な夢を、人間意識のドブさらいとか、カオスとかの言葉で描写しましたが、
現状、私の感想としては、テレビや新聞のニュースはそういった人間の深層を映し出すことに「忠実」です。

ある見方ばかりを繰り返し刷り込むと、人間の持っている別な面、真実を反映する素晴らしい面は隠れてしまい、そこにかぶさる「厚い雲」を形成してしまいます。

あなたの選びたい世界は?

私は別に、見える状況を「見ないふりしなさい」とお話ししたいわけではありません。
ただ、ニュースや番組という名目で、特定の側面や傾向にフォーカスし続け、それを社会や世界の情勢と捉える癖がついてしまったら、まさにその方向に沿って未来を形成してしまいますよと、お伝えしたいのです。

私からすると、なんでわざわざそんなことするの?そんな見方を強調するの?
と、心底不思議になるのです。

あなた自身の世界を成す材料として、何を「証拠」に選びたいですか。
私は、現状のテレビや新聞は自分にとって余計であると結論が出ました。

私が関心ある内容や、フォーカスしたい質は、ほとんどそこにないからです。

夢の中で「……。(関心がないよ)」といわんばかりに、ホラーな世界やカオスをただ観察し、ときに立ち去っていた自分とは、起きている間の自身の心そのものだったのです。

では、今の私の関心事は。

私の現在の関心事はと言うと、はっきりしています。

何年も前からすでに、ブログ記事でも「フィクションに興味がなくなった」と書いている通り、たとえば作られたドラマや映画や物語といったものに、全く面白さを覚えません。
他にも、かつては楽しんだのかもしれない多くの娯楽に、興味がありません。

それより面白いのは、実人生です。
人間や、地球上の生物たちです。

特に、自然界には尽きない興味があります。
有名人が何をした、何と言った、そんなどうでもいいことよりも、近所の鳥が何と言っているかにずっと関心があります。

それは、心が静かでなければキャッチできないんですけどね。

人間の行動だけでなく、人間の意識が、自然界に影響を及ぼしています。
自然界を大切に思うという目的からしても、自分をはじめ人間たちひとりひとりが真に調和した意識で生きるということが、私には大切です。

色々な生物たちの目線

この間、「シキーッ、シキシキ、シキーーッ!!」とものすごく大きな声で鳥たちが騒いでいたので、どうしたどうした?と窓を開け、鳴き声のする方を見てみると、シジュウカラの一群でした。けっこう数も多かったのです。

その方角は、うちの庭側ではなく他の住宅に面している方にあったのですが、
私が窓を開けると、シジュウカラ達がひらりと目の前にやって来て右と左に分かれ、それぞれ別々の住宅の屋根に乗って、両方からこちらを見るのです(笑)

そして、得意げな顔をして、「見て見て!どうよ?」と言うエネルギーが伝わってきました。
人間で言うなら、ドヤ顔です。

彼らは巣立ちをした今年の雛達で、こんなに飛べるようになったことを自慢(よろこびいさんでお披露目)していたのです。
私が窓を開けても逃げないほど、まだ、人間への警戒心もなかったのでした。

それから今度は、別の意味で「見てみなよ!」ということを言って、彼らは一斉に去って行ったので、下の地面を見ると、猫がいました。

少し離れた近所の家に飼われているか住んでいるかしている猫で、私は以前からよく見かけています。
この猫は、散歩コースでこのへんの家と家の間を抜けていくことが気に入っています。
猫はこのとき、私にじっと上から一部始終を見られていることに気づいていませんでした。

ずーっと目で追っていると、猫はやがて、ゆっくり裏を通って他の家に移って、道路に出る直前の生垣の茂みから、犬の散歩をしている人と、連れられてる犬とを、やや小高いところから観察していました。

そして、そうしている猫を、私もそれより高い位置からじっと見ていました。
観察の多重構造です。
犬のお散歩をしている人は、猫に見られていることに気づいていないな。
そして、猫は私に見られていることに気づいていない。
そういえば鳥って、こんな感じで高い位置から他の生き物を見ているなぁ……とも、思いを馳せました。
あのシジュウカラ達は、自慢に来ただけでなく、私にそれを教えてくれたのか?

自然界のなにげないシーンがもたらしてくれるワクワクの多さ。
私は、町内の鉄塔に巣を持っているらしいカラスのことも知りたいし(春のはじめ、親ガラスが巣材をくわえて鼻歌を歌っているのを目撃しました。鼻歌は鳴き声ではなく、気分をテレパシーで受信したもの。鉄塔は高いのでよくは見えないけれど、巣があることは確か)、私はこうした関心にこそ、自己のエネルギーをもっと多く配分していきたいのです。

自然界の多様な生物たちみんなと、人間とが幸せに共存する世界が、私の描くユートピアです。

そういう真の興味に沿った内容が、私の発信するニュースのように、興味のある方に情報として受け取っていただけたらいいなぁと思います。


この記事には後日談(関連したシンクロのエピソードなど)があります。
「創造は軽いタッチで。地の平和にチャンネルを合わせよう」

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「7月講座予告・寝入りばなと起きぬけを大切に・夢の情報処理」

beats-and-love.hatenablog.com

様々な生き物たちのニーズを自然と汲み取って、彼らのお世話をしたり助けたりしている方々はすでに沢山いらっしゃいます。
そういった方々が、多様な生き物たちとのテレパシーコミュニケーション(アニマルコミュニケーション)をも使いこなせるようになったとしたら、最高だと私は思います!

その願いも込めて、「テレパシー講座」を開催しています。
次回は6月15日(土)の上級です。ご受講の方は11日(火)までにお申込みください。

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