今回のテーマは「表の顔と、裏の顔」。
☆前回の記事☆の中で、アメリカの大統領選挙について少しコメントしました。
未読の方はそちらを先に読んでいただいて、
そこで言及した部分をさらに広げながらのお話です。
私はたまに英語の調べものをするときなどに、
アメリカ版の「YAHOO.COM」を使うのですが、
すると日本語の見出し以外の世界が覗けて面白いです。
今回の大統領選挙に関しても、もちろん見出しが賑やかですよね。
ただ、今となっては常時ニュース等を読むということはないので、
そのように挙げられた情報から何かを読み取っているわけではなく、
ブログにはただ、自分の肌で感じたことを書いています。
個人的な背景として、アメリカという国は私にとって高校の1年間、
現地の一般家庭の中に混じって(ホームステイ)暮らした経験もあるし、※
(※公立の学校に通ったので、色々な学生、色々な家庭の人がいました。
これが大学留学となると、少なくとも大学に進学できる人たちの集まりになりますが
アメリカの公立高校は、日本のような受験などもなく義務教育です。
その意味で特定の地域の中とはいえ、様々な現実を体感する機会がありました。)
また、社会人になってからもアメリカ人と仕事をしたり、
ときには現地へ出張することもあったので、やはり今でも、
そこでの空気をリアルに思い出しながらアメリカを見つめる部分があります。
そんな私の視点から、前回の、
『なので、たとえばある角度からの感想として、
「アメリカ国民の、おおっぴらにはできなかったけれど鬱積していた感情や、
これまで一応はオブラートにくるんでいた思いが表現された選挙となったか」
という風に見ることもできる一方で、
選挙の結果=アメリカ人全員の思い、と見ることは決してできないので、
集合的に見て結論付けすることには意味がないなぁ、と思います。』
という感想も書きました。
アメリカ国民の、おおっぴらにはできなかったけれど鬱積していた感情や、
これまで一応はオブラートにくるんでいた思い…
それは一体何でしょうか。
以下も引き続き、私から見た集合的な「アメリカ」への洞察として、
ひとりひとりを見れば様々な人がいるということはもちろんの前提で、
お読みください。
私がアメリカの人々を見ていて感じたことは、
「自由の国アメリカ」という型をみんなで一生懸命演じているけど、
実際には不自由さがたくさんあり、それを本当はわかっているのに、
隠せないのに、すごく無理をしているのだなぁということでした。
国としての「表の顔と、裏の顔」がはっきりしているとも言えます。
アメリカ・イズ・ナンバーワン!なんていう幻想はとうに壊れているのに、
近年までは、それでもなんとか人々は、
その「万能なイメージ」を自国(アメリカ)に投影し続けていました。
まだいける!まだ持ち直せる!
だって私たちは世界を牽引しているトップ、アメリカなのだから…。
ちなみに最近のアメリカの人たちはどうかわかりませんし、
地域によっても大きな差があることは間違いなさそうですが、
私がアメリカにいた当時は、
アメリカ人の「他国を全く知らないこと」に驚かされました。
自分の国のことしか知らない。
単に興味がない、そこまで考えが及ばない、という人も多くいるようでした。
つまり、「世界がすごく狭い」。
その傾向は主に、私が留学していたような田舎の方に多かったのかもしれません。
(私の通っていた学校の、マイアミから来た転校生は困惑していました。
アメリカ人にとっても、地域によっての違いは大きいと感じるようです。)
一握りの、外へ出て行こうとする人たちを除いて、周囲の学生たちの多くが、
その世界観のままで一生終えるのではないか…とすら思われました。
アメリカでは、学業ひとつとっても、
日本のように「平均的にだいたい皆がこれくらいできる」という感じはなくて、
飛び抜けた天才や秀才はどんどん飛び抜けていくけれど、
できない人はほとんどまったくできない…ということも見られる世界です。
そして、「表の顔」では人種差別やあらゆる差別を撤廃しようとしますが、
個人レベル、家庭レベルの「裏の顔」ではけっこう差別は普通にあります。
何が政治的に・公の場で「正しくて」、
腹の中や、非公式な場では何を思っているか…の分離がはっきりしています。
本音と、タテマエ。
また、キリスト教に根ざしている人が多いからか、
表面的には寛容に・ナイスに振る舞わなければ、という思い込みが強く、
罪の意識にさいなまれないように、“お手本”となるような行動を心がけ、
博愛のポーズを熱心に取ることも。
…とまぁ、こんな感じで「表の顔」があるとすると、
そんな仮面の下では、色々な問題や苦しみや矛盾や、感情であふれている。
だけど、それらは表におおっぴらに出せないもの。
「セラピスト」や「カウンセラー」には出してもいいかもしれないけれど…。
人の目も怖いし、キリスト教的な「罪」も怖いし、
ポリティカリー・コレクト(政治的に正しい)じゃないから。
そんな風に抑圧している人々のことを、
「スカーッ」とさせたのがトランプ氏であった、という可能性はあります。
そういう人々が、
こんなこと言ったら政治的に正しくないよね、差別的だよね、
なんて「表の顔」を意識して抑圧して振る舞っていたけれど、
「内心はこう思ってた!」ということを過激な形で代弁したのではないでしょうか。
もちろん、アメリカ人でも彼への嫌悪でいっぱいな人々もいますし、
やめてくれよ!とか、とんでもない!と思っている人もいるでしょう。
ちなみに私は、今回の候補者のどちらにも思い入れがない、と書きましたが、
トランプ氏もヒラリー氏も、自分ならあまり選びたくはないなぁという感想でした。
ただ、もしヒラリー氏が大統領に選ばれたとしたら、
根本的に、そう大きくは変わらないだろう…ということも感じていました。
だからといって、他の選択肢がトランプ氏か……と。
それはともかく、今回トランプ氏が当選したことは、
アメリカの「表の顔、裏の顔」の分離が統合に向かいつつある動き、
と見ることができます。
分離していたものが統合に向かうためには、
「裏に追いやっていた部分」にも光を当てなければなりません。
アメリカの取り繕っていた見せかけの姿・イメージは、とっくに崩壊していた。
みんながそれを知っていた。
外向けの顔を維持し続けるよりも、内側を直視しなければならない。
仮面をかぶり続けて、タテマエのアメリカのまま突っ走ったら、
「裏の顔」の苦しみは、引き裂かれるように強くなるばかり。
(ヒラリー氏が当選していたら、それが維持されていた可能性が大きいでしょう。)
見たくないものを、見る。
とても直視したくなかったものを、直視する。
恥ずかしいと感じるもの、がっかりするもの、認めたくなかったものを、見る。
これからどうなるかはわからないけれど、その意味では、
トランプ氏の当選したアメリカは、仮面が割れ始めたのだと感じました。
そして実は、私たちにもこのテーマは当てはまります。
「外」の世界として見ていることは、何らかの形で「私」の投影です。
表の顔と、裏の顔。
その分離があること自体きつくなってきたと感じる人は、素に戻りましょう。
もちろん、生き方は人それぞれですから、
自分は表の顔・裏の顔、分けて生きていきたいんだ!というのもOKです。
ただ、何のためにそれをしているのか。
あなたが「表の顔と裏の顔」を使い分けてしまう心の動機、
その部分が、浮かび上がりやすくなってきている昨今なのです。
ですから、意識的にあなた自身で「見る」と決めたら、
難しい道すじを辿らなくとも、案外すんなりいけるんですよ。
あれ?私、もう「表・裏」必要ないじゃない。
と、憑き物が落ちたように、自然と腑に落ちたりして。
汚いと信じていた。みっともないと信じていた。隠さなきゃいけない、と。
恥ずかしいと思っていた。悪いところがあると思い込んでいた。
だから、「表の顔」の仮面を被った。
あなたの中の、「隠さねば!」と信じて、押さえつけていた部分。
そうやって分けるから、暴れるんだよ。
そうする「根本」の動機を透かして見てみよう。
「裏」に分けなければ安全でないと、信じていたその「観念」を、直視しよう。
ひとり芝居だよ。
色々な仮面をいくら増やしても。
あなたの顔が引きつっちゃうような無理な仮面は、
もう笑って溶かしてしまおうじゃないか。
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