前回の記事を書きながらの15日夜から、16日もNate Dogg(ネイト・ドッグ)のことがやたらと心に浮かんでいたのですが、その夜になった頃やっと気づきました、3月15日はネイト・ドッグの命日だったんですね。
現地時間で考えると時差があるので、ちょうどでしたね!?(ロサンゼルスは東京から16時間遅れ。)
そこで、今回はNate Doggをしのびながら、以前書いた記事をさらに掘り下げた内容と、そこから発展して考えたことをお届します。
関連記事は◆「男はつらいよ~ギャングスタ・ラップの楽しみ方、Nate Dogg編~」↓
まず、上の記事をあげた後、いくつか気づいた点や深く調べてみたいことが出てきました。
ひとつ目は、「ネイト・ドッグはラッパーではなくシンガー」と私は書いたのですが、それについて。
私は昔ネイト・ドッグがインタビューの中で、「俺はラップの仕方なんて知らないよ(ラップはできないよ)」と言っていたのを読んだことがあったので、明確に「シンガー」と呼んだ方がいいのかと思っていました。が…
現地Wikiにはrapperとも書いてあるので疑問に思って調べたら、他のサイトのプロフィールの中には「a Grammy-nominated American singer and occasional rapper(グラミー賞にノミネートされたアメリカのシンガー、"occasional" ラッパー)」とあったので、「“時折”ラッパーでもある」と定義されているんだ、と。他には、「vocalist」という表現も見ました。こちらは歌い手としてますね。
私が知っている限りでは、ネイト・ドッグがラップをしているのは見たことがないのですが、そもそも「ラップ」自体の定義までも考えてしまうと、どうなのかよくわからなくなります。
ただ、私はなんとなく、ネイト・ドッグ本人は自分自身をシンガーと考えていたのではと思います。
個人的にはジャンル分けはどうでもいいのですが、このリサーチ(笑)をきっかけに見つけた動画があったので、シェアします。↓
ネイト・ドッグのフリースタイル(投稿者によると1992年か1993年頃だそうです)
Nate Dogg-- Freestyle
うーん!他の人がスタイルだけを真似して歌っても、こうはならない!オリジナルですね。
私としては、この動画を見つけられたことでこのトピックはエンディング、満足しましたので、次……
ふたつ目は、記事で取り上げた曲「Stone Cold」なのですが、クレジットを見るとネイト・ドッグ本人が書いた詞ではなかったということに気がつきました。
紹介したアルバムの中でも、ネイト自身がソングライティングに参加しているものと、参加していないものがあるんですよね。
もちろん他者の作った曲であれど、本人が歌い、アルバムにおさめているということは、彼のテイストになって情緒が込められ、愛着も生まれていたのではと思うのですが。
ソングライティングも本人がしている曲という視点から選んでみると、過去記事でも動画付きで紹介した「These Days」や、意外にもというかやっぱりというか、リンク先の記事内で一緒に載せた「Scared Of Love」、そしてそれと同様にセンシティブな、生身の心情を歌った曲、「Never Leave Me Alone」なんかもそうなんです。
ちなみに、「These Days」は、「Stone Cold」の歌詞の世界観と共通するものがあります。
どちらが先に書かれたかはわからないですが、もしかすると、「These Days」の雰囲気を踏襲しながら、ネイト・ドッグが歌うことを前提に書かれた曲が「Stone Cold」なのかもしれません。
「These Days」を紹介している記事◆「コトバを超えて意味を受け取る」↓
ところで「Never Leave Me Alone」というタイトルは、そのまま訳せば「ひとりにしないで」という意味です。ギャングスタ・ラップのイメージがあると、ちょっと驚くほどストレートですよね。
この曲を、ネイト・ドッグの親友のウォーレンGが、ネイトの曲の中で一番好きな曲として挙げていたので、そのインタビューのリンクをご紹介しておきます(英語)。
◆「Warren G Remembers Nate Dogg, Claims Piorneering G-Funk Sound」↓
上記リンク先の記事ではウォーレンGが、ネイトが通り抜けてきた様々な試練を考慮しながらこの歌でネイトが言わんとしていることを代弁し、「もし、自分が歌わなくなり、逮捕されるようなことがあっても、共にいる家族が必要なんだよ。」というメッセージを挙げた上で、こうも話しています。
「今のストリートでは、この人はもう変わっちゃったなとか、大金を稼げなくなったなと思ったら、人々はその人を置き去りにしていなくなってしまう。
実際にそうなって、みんなが去ってしまっても、それでもまだ、一緒にいてくれる特定の人たちもいる。そういう人たちは本物だから、そういう人たちみんなに向かってネイトは『ひとりにしないでくれ』と言っているんだよ。」と語っています。そして、この気持ちは、自分を含めみんなが共感できることだと。
なんとも、胸に迫る話ですよね。
やはり、色々な曲の背後に流れているものは、私の感じ取っていた心のメッセージと同じなのかなと思いました。
Nate Dogg feat. Snoop Dogg--Never Leave Me Alone
ネイト・ドッグについて、ネットに記されている人生上のトラブルとは裏腹に、親しかった人たちは彼の実直で誠実な人柄を述懐しています。
そしてこのウォーレンGのインタビューの最後にも出てくるのですが、ネイト・ドッグは晩年は聖歌隊と一緒に仕事をし始めていたそうで、ゴスペル、教会の音楽に心が向かっていたということです。
「彼は教会で育った…」とウォーレンGが言っているように、生い立ちを見ると、ネイト・ドッグは子どもの頃に聖歌隊に参加していて、お父さんは牧師さん、お母さんは聖歌隊を指導していた人だったんですね。
「I got hoes…とはもう歌わなかっただろうね」と、ウォーレンGが言っているように、曲作りを始めてインタビューを受けたネイト・ドッグの2人の息子さんも、自分たちの作った曲について冗談めかしながら、「父はあまり気に入らないと思う。僕が悪い言葉を使い過ぎると嫌がっていたからね。」と発言しています。
晩年のネイト・ドッグは、これまでとは異なる形で、本当に自分の心に添う音楽を創ろうとしていたんでしょうね。
このあたりの事情は以前の記事でも思いを馳せてみましたが、「ギャングスタ・ラップ」の芸風をずっと続けるのも大変そうというか…
音楽家であるだけでなく、一定のイメージを持つキャラを演じるactor(役者)のような能力も求められる部分があるのでしょう。
その点、私は、スヌープ(Snoop Dogg)は「芸能人」だと思っています、良い意味で。
デビュー当時から、ラッパーという枠組みをはるかに超えて、スヌープはスヌープという独特の存在でした。
西海岸のラップの全盛期を過ぎても、スヌープが慕われてショービズ界で生き残っている理由は、スヌープが唯一無二のキャラクターで、ミュージシャンに限定されていない「芸能人」としての存在感を持っているからだと思います。
※スヌープの経歴諸々を承知した上での感想です。キャラが濃すぎてお騒がせセレブみたいな感じにもなってますよね!
話を戻すと、ネイト・ドッグに限らず、子ども時代にゴスペルに親しんでいたミュージシャンは多くて、そもそもアメリカでは大多数の人が何らかの宗教を信仰しています。
日本では「無宗教」と言っても、そんなに驚かれることはありませんよね。
でも、少なくとも自分の経験から言って、アメリカの田舎の方、特に高齢者の間では「信仰している宗教が何もない」ということはセンセーショナルで受け入れ難い場合があるようです。
私は留学中、とあるご婦人会のような集まりで宗教を尋ねられ、素直に「無宗教」と発言したらその場がざわめいて「そんなはずは…」と色めき立ってしまった経験があります。
「大丈夫?この人」というような不信感や咎める空気すら漂っていたので、仕方なく、日本には神道もあるし仏教もあって、柔軟性があるんですが…と説明しながら「Buddhist(仏教信者)」と答えておいたら、安心してくれたようでその場がおさまりました。(実際は私は何も信仰していません。)
そんな感じですから、日本の感覚では大したことがないようでも、神という語を口にしたり、「ののしる言葉」などは特定の人たちには本当に不敬であり、禁句なのです。
日本人だと気軽に「オーマイガッ(Oh my God!)」などと言いそうになりますが、それだってクリスチャンで気にする人は必ず「Oh my gosh」や「Oh my goodness」などに言い換えています。こういうのを婉曲表現と言います。
このあたりは、◆「翻訳の不自由さと楽しさについて語ってみよう」でもふれました。
そういった背景がある中で、cuss word満載のラップや歌の音楽をやっていくのは……実は、私たちが想像するよりも特殊な精神バランスになる可能性もあるのではないかと思います。
もちろん、アメリカ人でクリスチャンであっても、日常的に4文字言葉を使っている人は多くいます。どの程度そういう観念が根付いているかには個人差があります。
ですが、商業的にそれを売りにしていくとなると…もし、心の根っこに宗教的な教えがあった場合、葛藤は生まれないのだろうか?ということに私は興味をおぼえます。
ネイトと共演した曲でスマッシュヒットのある、私の大好きなLAのラッパーで今ではインディペンデントで曲を出しているShade Sheist(シェイド・シャイスト)という人がいますが、あるとき彼のSNSでファンの人とのこんなやり取りを見かけたことがあります。
「実際に、どのくらいのラッパーが本当のギャングスタだった?」
「ごく少数だよ。」
そして、彼自身もインタビューで、自分はギャングなどではないし、早くから音楽を創造することに没頭していて、そういった人生とは無縁だったと話しています(出身地は治安の悪いと言われている地域ですが)。子どもの頃から親しみ、愛していた音楽がギャングスタ・ラップと呼ばれるジャンルだっただけ。
異国に生まれ、単純にその音が好きだから、惹かれるから、ギャングスタ・ラップが好きだという私のようなタイプの人間は、特に深く考えることもなく最初その世界に親しむわけですが、だんだん深入りして、アーティスト個人個人に思いを馳せるようになると、ついアメリカの社会構造やメンタリティーにも興味を持ってしまうから不思議ですね。
光があるから、闇が生まれる。
何かを「クリーン」と定めると、「クリーンでないもの」が生まれる。
「よい言葉」と「悪い言葉」を分けるルールを作るマインドそのものが、cuss wordの必要性を保持しているのだと気づく日は来るでしょうか。
宗教的にも厳格で、「よい音楽」を推奨する人たちは、ギャングスタ・ラップなどの排除したい表現が、自分たちの世界のバランスを取っている…同じひとつのものの両側面であるという視点で眺めてみることはあるのかな。
そんなつぶやきとともに、今回の記事を終わりにします。
☆最後の部分のトピックと関連する過去記事☆
◆「表の顔と、裏の顔」
◆「アメリカ留学の思い出、表と裏編」
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