BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

さよなら、エンパス

※2/4 記事中の、補足説明のところだけ修正しました。

結局4回目の更新はなく、日付が変わりました(笑)
予告通り、以前扱ったことのある「エンパス(共感能力者)」について、書きます。

この記事は、エンパシーが負担に思えるような人が対象です。
すでにその自覚がある人に対し、
「自分の感じることは尊重する」ことを大前提として、その先のお話をします。


以前の記事はこちらでした→
「エンパスの有用性」
そしてまた、ひとつのものの見方として、こんな記事も提示しました、
「レット・イット・ビー☆」

ところで…このレット・イット・ビーの記事をいま読み返してみて、
あれ?補足が必要??と気づいた点があったので書いておきます。


記事の中で、コースの「私は何もする必要がない(I need do nothing)」
という言葉を引用しているのですが、

実はこれは、「体はない」ということを説明しているセクションに出てくる言葉で、
すべてはマインド(心)の中で起こっているという意味の説明です。

ですから、私は、何かをする必要がない、
「何をするべきか?」と考える必要はない、
体を巻き込むような行為は、いずれも必要がないんだよ、と言っています。

「何かをする」という行為の側面は、いつも体を実在のものとして、
体を中心に考えることから、起こっていますよね。

でも、実際はすべてマインド(心)の中で、起こっているのです。

このように「行為は必要ない」と正確に認識することによって、
私たちは「体の重要性」から自分の心を解放することができる、
その幻想から自由になれる、

そうして「体」とは無関係な静かな中心に戻ることによって、結局、
体を適切に用いる方法も、聖霊に導かれてわかるのだということでした。


ぜひ、ご留意ください。



それでは、本題に入ります。

私自身がときに困難に思うエンパス体質だったのですが、
自分の態度に、はっきりとした変化がありましたので書いてみます。

これは私の個人的ケースにすぎませんが、
エンパスの発展形の一例として、朗報となることを願います。


☆☆☆

最近私は、とみに、「自我の思っていることは出鱈目である」
ということに気づいています。

私たちはいつもいつも自我意識に合わせているわけでもなく、
直感と自我の声とが心に入り混じっているから面倒なことになるわけですが、

それでも、観察しているとはっきりわかるのは、

自分の内で、先に怖れや低い(自我から派生する)感情が湧いているとき、
何らかの理由で自分のエネルギーがすでに落ちてしまっているとき、

自分の中で、低い波長にもう同調しているので、それが根底にあるので、
望ましくない形の「エンパシー」が起こる、ということに気がついたのです。


それは、自分の意識がどこに波長を合わせているか、ということです。

私たちはひとりひとりが、
自分で「意識のラジオのダイヤルを回している」のです。

同調する局をいつも選んでいます。
高い放送局に合わせるのも、低い放送局に合わせるのも、自分の選局です。

このことに、はっきり気づくきっかけは、数年前のある出来事でした。


私は、とある混雑した待合室にいて、長椅子に座っていました。
人々の鈍い不安や苛立ち、とても気持ちのいいとは言えない波長に満ちており、
どう意識を切り替えようと思っても、具合が悪くなってしまいました。

それで、少し頭を抱えるようにして、身をかがめて自分の内にフォーカスした瞬間、
ひらめきのように、

「ここにいる人たち全員が、
自分のセッションのクライアントさんだったらどうなのだ?」

と、自ら問いかけたのです。


ぱっと、霧が晴れたようでした。頭が一瞬でクリアーになりました。
周囲のエネルギーが変わりました。

顔を上げ、その空間を見まわしてみました。
ひとりひとりが、ただ「愛しい人間」に見えました。


そのとき、「ああ、エンパスだから苦しむというのは、私の間違いだな。」
と、気づいたのです。


(人に見える、弱いところに感情移入・同調するとき、その人を救えない。
人の、内なる光、美しさ、強さに視点を合わせるとき、その人を力づける。
どこに焦点をあてるか?何を信じるのか?という選択の問題である。)


☆☆☆

思えば、私はセッションのときは、
相手のエネルギーに注意を払い、集中して感じていますが、
自分が疲れるということは全くないのですね。

気づいたまま、相手の感情、感覚に「のまれる」ということが起こりません。
それは、自分が「内なる神性」のもとに、自分の「局」をロックしているからです。

そのことをよく考えてみるべきでした。
いや、昔はそうできなかったのかもしれません。


「内なる愛」に注意を払う生活が続いたせいか、
近頃は自然と、多くの人の中にいてもあたたかさや、つながり、
親近感のような感覚をおぼえることが多くなってきました。

どの人も、どの人も、「自分と同じ」に見えるということです。
それは、個性があり、ぬくもりのある、
それぞれの人生を生きているかけがえのない人たち、
色々な気分、感情、状況にあっても、
みんなが神性のあらわれであり、大きな自分の側面であると、

「皆が大丈夫な、愛しい存在だと」見えるようになってきたということです。


人々と、自分との境界があんまりない感じです。
実際に、手でじかにふれているような、
ふわんとした「ひとまとまり」のエネルギーを感じます。

喧騒も、波のように心地よく感じられることがあります。



それから、さらに別の側面にも気がつきました。
もしかしたらこっちの変化の方が重要かもしれません。

それは、自分が、

「自我がブーブー言う、小さなことにこだわらなくなった」ということ。
(以前よりは、ですけどね 笑)

どうでもいいことって、いっぱいあるのです。
それはただ流しちゃって、意に介さなければいいのです。

自我のもたらす「ちっちゃいこと」に関しては、
真面目に、深刻に、いちいち取り上げて取り組みません。

自分の心の中での「引っかかり」があるときは別ですよ!
でも、そうでなければ、ささいなことは「受け流し」です。


自我の声が止まらないときでも、それを自分は黙って「聴く側」で、
そんな自我の愚痴のシリーズに、ときには適当な相づちを入れてあげます。
ときには軽快な合いの手です。いや、入れなくてもいいですが(笑)
これは、批判や議論、対立する姿勢ではなくて、

こちらはまったく本気にしてないってことです。

真に受けないんです。信じてないんです。

内容がどうでもよいということに気づいてくると、しめたものです。
自我がしらっとして黙り、心が静まったり、「スピリットの声」が出てきたりします。


それにプラスして、大事な点がもうひとつ。

私が、「外の目がどうでもよくなった」のもあります。


エンパスの人の怖れって、「外を感じる」ことだけじゃなく、
自分が「どう思われるか」…それに対する怖れも、あると思うんです。

「人が自分をどう思うか…」そこに敏感な状態が作られているから、
警戒しているから、余計ひりひり感じるんじゃないかなって思うんです。

これは、私がそうだったから言っているのであって、
エンパスの人は、決して批判ととらないでくださいね!

あくまで私自身が思う、エンパスの、ひとつの側面です。


つまり、この記事(「あなた自身を知りなさい」)でも書いたように、
この世界での、「しっかりとした自己(自分は誰であるか)」が、
確立されていないと苦しむのではないかと思うのです。

そこに自信がないから、痛むのではないか…と気づいたのです。


私は、ほんとうに過去の自分を振り返ると「表彰」とか、
「胴上げ」すらしてやりたいくらい、

自分がどう見えるか、どう思われるかが、けっこう今ではどうでもよくなっています。

まったくのゼロではないですが、かなり適当にはなっています。
これは楽な状態です。


だって、わかったのです。

この世界の人はみんな、「自分の思うこと」を言っているだけなんです。
「自分がどう感じたか」を、ただ自由に表現しているんです。

それはひとりひとり違っていて当然なんです。

みんなが私を「気に入る」、「いいと思う」必要なんて、皆無です。


それに、ときに人は、
自分自身が「本当に感じていること、自分で思っていること」すら、
わかっていないでものを言っていることがありますよね。

そう…「思い込み」の現実に従っているんです。

そのように根拠のない「外の意見、感想」に、いちいち自分を合わせていたら、
たぶん死んでしまいます!(笑)


だいぶ前から、私はそれを「捨てる」方向に生きてきましたが、
ここにきて、それらが実ったのを実感しています。

「神様のくれた自分」が、再生し、芽をふき、幹が成長したとも言えます。みどりキラキラ☆


私の本当の姿は、私の内側の霊性、すなわち「神様のみがご存知」でした。


人が表現した「私についての反応や考え」に対して、
私が何か引っかかりを感じ、反応するのであれば、
そこには自分の「罪悪感」なり、「思い込み」なりが隠れているということです。

それは、

自分の洗うべきポイント

が見えているというだけなのであり、自分の心を照らすありがたい作業です。

これは怖くないし、全然外のせいじゃないですよね。


☆☆☆

いかがですか?

エンパスの「成長」、もしかしたら共感できる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

感じる存在であるけれど、その在り方は変わっていく。
あえて、「さよなら、エンパス」というタイトルをつけました。


苦しくなる必要はないよね。
愛というのは、危険なものでも、「自己犠牲」でもないからです。

お互いが「WHOLE(全体)」なままで、自然体で、安全に、関われる。

みんな大丈夫だから。
何が見えても、「私の目」が、「私の心からの愛」を映すから。


そう思います。


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