前回の記事◆「いびつであることの愛しさ」のつづきです。
では、それができないとき、
人をありのままで認められないときはどうなのでしょうか?
まず気づくのは、人を批判しているときは、
必ず自分を批判しているということです。
人を裁いているとき、
本当はその人ではなく、
自分の中にある要素を裁いています。
自分がこうだったらいやだ!それではだめだ!…
と感じている要素を他人の中に見たとき、
相手を心の中で攻撃(非難)し始めることに気づいたことはありませんか?
それはつまり、見たくないものを見たということではないでしょうか?
もし、自分の中に100%罪を感じていない人間がいたとしたら、
はたして、外に「罪」を認めることができるのでしょうか。
「罪」ってなんなのでしょう?
これは罪だと、その判断を下しているのは、誰でしょう?
そしてその判断は、何に基づいているのでしょうか?
自分の感じる「罪悪感」も含め、
罪は学習され、受け継がれてきたものではないですか?
私たちには、傷ついたと感じるたびに、
心を閉じるのではなく、開くという選択があります。
「外の罪」を攻撃する代わりに、自分の中の罪悪感を癒すという選択があります。
傷ついた、憤りを感じた、誰かを非難している…ということは、
ひそかに「罪」だと信じて、自分の内へ閉じ込めていたものを、
出来事として光にさらしたのだということです。
逃げずによく見つめてください。
見れば、もう、そこから自由になれます。
今までどんなに固定された視点からものごとを眺めていたか、知る機会です。
罪と錯覚していたものを解放し、無に帰してあげるチャンスです。
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