BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

間のまにまに。地にある自分と、宇宙人のこと

ときどき書いているが、私は、睡眠、夢の世界から、
こちらの意識に戻ってくるはざま、

よく、明らかに自分が「この設定」の自分ではない、
いわば何者でもない体験をするんです。

わかっている(自覚している)意識はあるが、“誰”でもない。

ほんの束の間ではあっても、
そのあいだは妙にさめた、白紙のような状態で、

じょじょにこの現実での自分という設定を、
じわじわと取り戻していくわけですが、その様子は奇妙です。


そして“間”ならではの思考というのがあり、
そのときとても冷静に色々なことに気づいていたりします。

しかしその状態とこの状態というのに、はっきりした境界はなく
その意味で私は、意識というのは分かれているわけでなく、
グラデーションであると表現します。


今日の、その「間」の体験で、
「無」意識と呼ばれるものなどについてふれてみていたのですが、
その流れで、このようなヒットがありました。
(ヒットとは、浮遊しながら行き当たる感じ。)

「表層意識は表層じゃない。
こっち、(私たちが表層と呼んでいるもの)が、深層なんだ」

(源はどっち?)

あえてそのように表現するならば、
私たちが「表層」と呼んでいるところは、“もっとも遠いところ”。
まどろんでいて、マッディー(muddy: 泥っぽい、濁った、あいまいの)で、
根源から投げたものをそのままの形で届けるのがむずかしいところ。


そんな流れの中、次に見たヴィジョンは、
マスターマインドはひとつの「入れ子構造」でした。
(部分の中に全体が入っている構造)

これについてはまたいつか書けたらと思います。

☆☆☆

意識と「無」意識についてを皮切りに、
その前にどんな浮遊をしていたか…も、そのまま書きます。
こんな内容。

☆☆☆

自分の心の中に、知らないところ と 知っているところ をつくらなければ、

世界を鏡として体験する必要はない。

それは、外界がなくなるということだ。


私はいつも“外の姿”を借りた(外の姿としてあらわれた)、「自分」を見ている。

それが人間の思っている生物であろうと、無生物であろうと、関係ない。
すべてがそうだ。
言うまでもなく“外の姿”には、身体と同一視された自分も含まれる。

外の人として、外の生き物として、外の物として、外の形として…。


コミュニケーションは、相手が人だろうが、生き物だろうが、ものだろうが、
“ひとり語り”。

自分が自分に語りかける。

外との対話は、交流は、
自分の心の一部が何をしゃべっているかを見てる。

なぜなら、“私とあなた”なんていないのだから。

誰も、外の人(もの)を、相手になどしていない。
外の存在は、いないから。

私は、私の知らない(気づいてない)私を体験しているだけ。

たとえば、キリストやブッダが「人」の姿として体験されたように。

それは人々にとって、自分の中のキリスト(聖なる)意識や、
ブッダ(目覚めた)意識を、そのような形で外に体験することで、
認識することができた、ということにすぎない。

その体験が必要だったのだ。
外に見て、外の人のように知って、気づくという体験が。

☆☆☆

その流れでいうと、私たちが「新しい自己」の領域にふみこむとき、
そこに気づき始めるとき、

やはり「この舞台」における顕れ、体験として、
宇宙人(エイリアン・地球外生命体)が出てくるのは、必須である。

これまで気づかなかった能力。
新しい認識。
イオニア

そういうものが、きっと、宇宙人という形として、
この星という限界の外にある存在としてあらわれ、体験されるだろう。


…というわけで、私は夢物語ではなく、この地球の集合意識的にも、
宇宙人にはこの舞台で、実際にまもなく遭遇するのだろうと踏んでいます。

私にとってはそれは、明白に思えるのです。
まるで時のしるしが、そう告げているかのように。


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