このあいだ、家で温野菜を作って食べていたときに、
「さつまいも、少し食べてくれる?
昔は好きだったんだけど、苦手になっちゃって。
食べると次の日、おなかがおかしくなるの。」
と、パートナーのお皿に自分のさつまいもを分けていると。
(彼の希望でメニューに入れていた)
それは、屁がでるっていうこと?
と、具体的に尋ねられ(笑)、
…おならというより、ごろごろしてお腹を壊すよ。
と、答えて、
「なぜか、大学いもみたいに油で揚げたのとか、
濾してバターと混ぜて焼いたスイートポテトとかは今でも大丈夫なんだけど。
ふかしたのも、茹でたのも、焼き芋も、ある時期からだめなんだよ。」
と詳しく話すと、
「去年の冬、焼き芋食べてたじゃん!」
と、さらに追っての質問が…(笑)
「…どうしても食べたいときはね。
焼き芋見ると、気持ちは食べたくなるから。とくに冬は。」
と、仕方なく答えました。
彼の質問といい、この話題でここまで追及されたことといい、
私はおかしくって(笑)
…あらためましてこんにちは(*´∇`)ノ ♪
今日の話題は「受信者より送信者であれ」です。
☆☆☆
自分の心の姿勢を、
「受信者」、「送信者」という風にそれぞれ見たとき。
もちろん両方が必要だけれど、
「世界」に対しては、送信者としての自分を意識したほうがいい
というのが、最近の私の実感です。
なぜならふだん、そちらの方が、かなり忘れがちだから。
自分に何かが起こってくる、
~される、~に遭う、~の影響を受ける…等々、
私たちにとって「受け手」としてのインパクトは強くても。
送り出す自分がいるということを、覚えていること。
(発信者としての自分)
これを意識するだけで、だいぶ違うと思います。
一方、「受信」するのは、外に対してというより、
(表面的なこと、外に見えたことをそのまま受け取るというより、)
内面のささやき、内なる声や感覚、に注意を払う方がいいです。
☆☆☆
私に限ったことではないかもしれませんが、
我が身を振り返ると、自分が何を送信しているのかには無頓着で、
起こる出来事に対してはひたすら受け身、という風に、
偏ってしまうことがありました。
ここでいう「送信」は、
自分が具体的にどういうことを言ったとか、行動したとかのレベルを超えたものです。
超えた…というより、それ以前の、心の中身の問題です。
心の中身というのも、
いわゆる決まりきったジャッジ(良い/悪い)に関する話じゃなくて。
何に、どれだけエネルギーを費やすか。
私はなにを信じるがゆえに、そこに思考を持っていくか。等々。
そこを見つめると、自分が“どのような「送信」をしているか”わかります。
自分の発しているサインの解読と、思考の棚卸し、みたいな感じかな?
もっと単純化すれば、「状態(あり方)」の話になります。
繰り返しになりますけれど、受け取ることが「内側からの受信」ならば大切なのです。
ただ、この「受信」の姿勢が、「外」に基盤を置かれてしまっちゃあ、まずい。
なぜなら、外は、あなたの内側の何かを反射してくれてはいるものの、
「スタート地点」じゃないからですね。
根本、発している側はどこかということを見失うと、混乱してしまいますよね。
意識しているサイクルが逆の流れ、「さかさま」になっちゃうんですよね。
すごくシンプルなことなのに、
こうもむずかしく感じるのは、私たちにとって、
完全に客観的な(自分と分離された)外というものがあると信じているためです。
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