今日は「真の自己(トゥルーセルフ)」と、ゆるしについて書きます。
最近、インスピレーションについてよくお話ししていますが、
皆さん、「真の自己」の示すものについて、特定のイメージを持っていませんか?
もちろん、「真の自己」の本質はいつも愛であり、
「個人」という幻想のもとにつくられた利益や、分離を促すものではありません。
そういう「特徴」はあります。
けれども、
「制限された発想」しかできない、
自分の思い込みの中で答えを導き出そうとする自己の、
「こうであろう」と想像している愛の姿とは、異なっています。
むしろ、
「こうであろう」と思い込んで想像している愛の姿があるからこそ、
その思い込みが邪魔をして、導きを妨げる…
私たちに、今、ここにある消えない愛を見失わせるのです。
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◆「上級の優しさ」
beats-and-love.hatenablog.com◆「虐待の連鎖を断つ」
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私たちの葛藤は、罪悪感からはじまります。
自分を裁くことからはじまります。
「ああ、こんなこと思っちゃって…
こんな感情を感じちゃって…
私、ちっとも愛の状態じゃない!(私が悪い)」
そして時には、この罪の意識が外の人や出来事へと責任転嫁されます。
「そもそも、あの人がこんなんだから…
こんな出来事があったから…
ああいうことを私にしてきた(してくれない)から…」
これでは、かわいそうな、自分を制限した意識から出られません。
では、そのまんまでいいの?
人に対して攻撃的な気持ちになったり、心の中で憎んだり…?
それもそのままでいい?
いいえ、
それを正当化することは、そのままではいけません。
あなたに大切なことは、
自分の現在の姿を真っ正直に把握しながら、気づきながら、
それでもそこを裁かない。正当化もしない。
自分の狭い発想(認識)の中で、それを解決しようとしないということです。
結局その試みは、自分なり、人なり、状況なりを裁くことになるから。
そうやって判断(裁くこと)を止めた状態で、
インスピレーションに心を開くことです。
真の自己の導きに心を開くことです。
真の自己の導きって、いつも同じじゃありません。
セッションでもそうですが(真の自己・スピリットの表現を受信します)、
同種のテーマでも、ある人には、
「今は感情をそのまま出して!わがままになってもいいから。
あなたは、自分の中で止めないで、思ったことをそのまま言うことが必要です」
というアドバイスをするかもしれないし、
またある人には、
「何か人に発言する前には、まず自分の心に注意深く耳を傾けて、
言う必要のあることだけを言ってください。」
というかもしれません。
ケース・バイ・ケースです。
必要なことはその人その人、そのときそのときで違うからです。
特定の「型」はありません。
ただ、「真実の自己」であるがゆえに、
それは現在ちょうどいいあなたのための導きであると同時に、
全体の調和と、愛のための適確な答えとなっているというわけです。
☆☆☆
真実の自己とつながるということは、
自分の本当の姿、「そのときにまさに必要なこと」は何かを知ること、
そして、それは決して、「優等生の自己」の導きではないのです。
「優等生の自己」は、
自分の本質を忘れてしまったあなたの作った思い込みです。
別な自分を信じているからこそ、生まれてくる架空の理想像です。
自分が「愛」でないと思っているから、「完璧な愛」の形を追うのです。
人が「愛」でないと思っているから、「愛の証拠」を目にしたいと思うのです。
愛は、存在の基盤です。
存在そのものです。
「表現」によってその価値が減ぜられたり、増えたり、
評価されるようなものでもありません。
壊すことができません。
「幻滅」できるのは、人間の思い込んだ愛だけです。
完璧な愛をいつも体現できる人が、人間の中でいるでしょうか?
いるかもしれませんが、いたとしたら、今これを読んではいないでしょう。
もしあなたがそうだとしたら、さしあたり、この記事を読む必要はありません(笑)
あなたが、人が、いつも「自分の思う通りの愛」を表現できるのだったら、
「ゆるし」なんて必要ないのです。
できない私たちが、それでも「愛」を信じるから、思い出すから、
世界が変わっていくのです。その決断によって。
そう、これは、私たちの心の世界だから。
愛でない表現に映るものが皆、
愛が理由で、起こっています。
「愛の不足」を訴えている現実すら、
あなたの愛を呼び覚ますための機会です。
☆☆☆
ここでひとつ、個人的なエピソードを書きます。
あるとき私にはこんなことがありました。
今からもう何年も前のことでしたが、大人になってからの話です。
実家に帰ったときに、食卓で、両親が険悪なムードでした。
けれどもそれは冷戦的な感じで、表立った会話であらわれるものではない、
言葉にならない言葉で起こっているとげとげした「雰囲気」でした。
そういうことは、当時、何度も目にしていました。
父が週末だけ帰ってくる単身赴任で…それは思ったより長く続き、
仕事も大変そうで、ふさぎこんでいる時期だったかもしれません。
帰宅している間、母が話しかけても、返事すらしないような時期でした。
2人の仲が、冷えているように見えました。
それでも、一時的に帰ってきているときくらい仲良く過ごしたい…
と思い、私は、なるべくあたりさわりのない態度をとっていました。
けれども、何かの瞬間!
自分も、言い合いにでもなったのだったか?
今ではもう、きっかけがよく思い出せませんが、
私は帰り支度をしながら、まるで子供のように泣きじゃくり、叫んだのです!
「こんな痛い雰囲気の中にはいたくない!
2人とも、何か言いたいことがあるならちゃんと言ってよ!
私には、感じるんだから!!ずっと、小さい頃からいやだった!」
この感情のほとばしりは、止められるものではありませんでした。
母は、気が強いので(笑)、むしろ私の感情の爆発に怒り出し、
「何言い出すの?何も私たちケンカなんかしてないわよ!
勝手に、自分の気分でものを言わないで!大きなお世話だわ!」
というようなことを言い返しました。
しかし意外だったのは、ふだん無口な父が追いかけてきて、
「わかった!わかったよ!お父さんたちが悪かった。
そうなっていた。○○ちゃん(私の本名)の言う通りだ。」
と、言ったことです。驚きました。
私は胸が痛くて、わあわあ号泣しながら、よろけながら、都内へ戻りました。
まるで小さな子供の気持ちでした。
ためていた、幼少期の「お父さんとお母さんに仲良くしてほしい」気持ち、
ケンカのたび不安だった、自分の悲しみ、怖れが出てきたのだと気づきました。
その後、私は両親と携帯メールのやりとりをし、
母とは電話でも話し、それぞれが思っていることを聞くことができました。
それで驚いたのは、2人とも、
「心配するようなことは何もない。
小さい頃のことも、まさかそんな風に不安にさせてると思わなかった。
私たちがいくらケンカをしていようが、そんなのはたいしたことない。
本当に別れたりはしない。気にしなくていい。」
というようなことを伝えてきたのです。
とくに母は、
「あなたが生まれる前から、(私が生まれる前に10年ある)
私たちは夫婦をやっていたのよ。あんなケンカ、夫婦漫才みたいなものよ。
もう、またやってるわ~!って、あきれて、流してくれていいのよ。」
と、伝えてきました。
ガラガラと思い込みが崩れる気持ちでした。
私が「危機感」を感じ、おびえていた子供の頃の感覚は、
今はもう、存在する理由はないのです。
私は、不安でたまらない子供の目で、そのままの判断で、
「愛は消えちゃう。なくなっちゃう」
と、信じていたのです。
もちろん、大人の視点から、
両親につっこみを入れたい気分の自分もいましたが、
しかし、自分の「子供」の視点がそんなにも残っていたことの驚きと、
そしてまたそれが、あっさり必要なくなったことにも驚き、
それからは、不思議と、両親が「両親」としてではなく、
若い頃も、仲良く生活を築いていたときもある、
私の知らない時代も共有した歴史あるカップルとして見えるようになり、
それに準ずるエピソードや写真なんかも、目にするようになったのです(笑)
ビックリ!!
☆☆☆
それから現在まで経ってみて、大切だと思ったのは、
皆さん人生の詳細には色々あるでしょうが、私が思うに、
人は色んな事情で、色んな行動をとることがある。
ときには人の望ましくないと思う姿、争いを目にすることもある。
でも、自分の目に映るそのような状況にともなって、
「愛の終わり」を信じるべきではない。
何に対しても、自分が「愛がない」と判断した時点で、
正しくものを見ることができなくなる。
ということでした。
☆☆☆
今日私の内側から受け取ったメッセージです。
ゆるしってさ、大丈夫なんだって知ることなんだよ。
愛に対する、信頼のことだよ。
もしかしたらここには愛がないかもしれない、っていう、
自分の疑いを手放すの。
あなたの内にある愛につながるのが、先だから。
そうすると、
あなたは安心した気持ちのままで、この演劇に参加できる、
愛っていうベースがあなたを支えているから、
あなたは見間違えずに、落ち着いて、ちょうどいい「自分の役割」をまっとうできる、
あなたが愛をもって「自分の役割」に忠実であるとき、
ほかの配役のみんなにも、やっぱり、そこに調和する力が働くんだ。
その結果、みんなでやりたかったひとつの
「愛のサポートによるお芝居(結果)」が現実になる、
そういうことなんだよ。
☆☆☆
まずは、愛を信じてみませんか?
受動的に(外に)見たものの中に愛の証拠を見つけるのではなく、
自分が、愛を見ると決めて、
自分の心の中にある愛を、確かめてみませんか?
それは、あなたの源泉です。
あなたは、必ず、すでに源に愛されているから、
それを外に出したい、「愛したい」と思って、愛を放射しています。
あなたの内にある愛を信頼していれば、外の愛は、
どんな形をとっていても言わずもがな、です。
それでは、また次回、お会いしましょう~♪
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