こんばんは~。(^∇^)
今日はなんだか龍さんたちが忙しそうな空でした。
季節の変わり目なので、色々な活動で忙しいのかな?と、
空を見上げながら思っていました。
こちらの写真は今日の午前中の空です。↓
太陽は、眩しいのでサンバイザーをかぶりながら撮影( ̄▽ ̄)=3
今回の話題は、「それは自己犠牲ではないのよー」です。
自分の本心に正直になっていいのかな…
そんなことして、本当にうまくいくのかな…
やっぱり、嫌なことでも耐えて対処をしたりとか、
我慢して何かを行ったりしなければ、人生成り立たないんじゃない?
と、感じたことはありますか。
それは私たちの中にある根強い観念だとも言えます。
ただ、ここで注意してほしいのが、
あなたの中にある自己犠牲の観念は不要だけれども、
あなた自身が本当は「犠牲になってなどいない」ことを、
自己犠牲をしているのだと思い込んで不快になっていることもある
ということです。
どういうことか、具体的な例をあげて説明しますね。
あなたは、部屋の整理整頓が苦にならず、片付ける人だとします。
暮らしの中で、多少散らかることはあっても、
きれいな状態が心地よいので、掃除や片付けは自然に行います。
ところが…
あなたの家族の誰かや…パートナーや…友人や…
身近にいて生活スペースを共有しているような人が、
部屋を散らかす上に、自分では片付けない、
部屋の状態をまったく気にしない人だったとしましょう!
すると、どうなるでしょうか?
あなたは相手の分も「仕方なく」片付けながら、
だんだん腹が立ってくるかもしれません。
なんで私が毎回片付けているんだろう…?と思いながらも、
放っておくと、あなたの生活空間が心地よくなくなってしまうからです。
あなたは、相手のせいでそんな思いをしていると考え始めます。
どうして私に負担がくるのだろう?
この人のせいで、私が犠牲にならなきゃいけないの?!
ときには、そんな片付け作業を繰り返しながら、
自分だけ損をしているような…自己犠牲しているような…
そんな気持ちも生まれてくるかもしれませんよね。
でも、よーくこの状況を観察してみましょう。
部屋をきれいにしておきたいのは、あなたの好み、希望、価値観でした。
「あなたにとっては」、それが心地よいのでした。
「だって、誰もがそうでしょう?」という気持ちはここでは保留にしてください。
そうではないからです!(笑)
つまりこれは、「あなたの基準」なのです。
一方、あなたの身近な人は、別な基準を持っています。
その人にとって、自然にしていると、
部屋の状態はほとんど気にならないのかもしれないし、
別なところ(あなたとは異なる点)が気になる人なのかもしれません。
このように、それぞれの基準には違いがあるということ、
「部屋をきれいにしておきたい」というのは自分の希望なのだと忘れて、
相手に対して、もし、
「この人は、当然すべきことをしてくれない!」
「私が、(その人の分まで)やってあげてる!」
と、思い込むと、あなたは「自己犠牲的」な考えに陥ります。
その被害者的な思考から、怒りや不平不満、悲しみも生まれてしまいます。
場合によっては、この考えをベースに、
なんとか相手を「自分の基準」に従わせようとして、
相手をコントロールしようとしたり、パワーゲーム(権力争い)になったり、
自分への「愛情」と結び付け、相手の態度を評価したりもします。
でも…
「当然すべきこと」を、「私がやってあげているのだ」という、
自分の基準からだけ見つめている「偏った視点」を外してみると…
その点をのぞけば、あなたは、本当に無理をしているのでしょうか?
何かを我慢して、負担を背負って、自己犠牲しているのでしょうか?
そう自分の中心に戻って、余分な思い込みのない状態で見てみると、
あなたは、片付けや部屋のコンディションを整えることそのものは、
元々、苦ではないのです。
それはあなたには自然にできることで、
自分の心地よさに従って、自分のために、行っていること。
それでは、
作業そのものよりも何があなたの「火種」になっているかというと、
「私だけが…(やってあげている)」という自己犠牲感や、
「相手もこうするべきなのに!」という不当なことを批難する気持ち、
そちらなのです。
この例だと「片づけ」ですが、
その作業や行為そのものが本当の問題ではなかったのです。
さて、引き続きこの例だと…
あなたの個性では、片付けは得意な方なのでした。
でも、あなたにとって、きっと苦手なこともありますよね。
自然にしていると忘れてしまうほどに気にならない分野だとか、
興味、関心の湧かない事柄もあるでしょう。
あなたのそういった分野を、他者がすすんで行ってくれていること、
それによって助かっていることが、実はあるのではないでしょうか?
私たちは大変うまくできていて、全体で調和していて、
あなたが苦手なことや興味がないことも、
よろこんで、あるいは苦に思うことなく、してくれる人が必ずいるものです。
あなたの身近な人にも、そういった側面があるのではないでしょうか。
よく見てください。きっとあるはずです。
自分を納得させるために無理に「お互いさま」という言葉を使わなくても、
本当にお互いさまなんだなー!と、気がつくはずですよ。
あなたがしたいと思うことをしているとき、
あなたの得意なことや自然とできることをしているとき、
「観念から人と比較して、損得勘定で考えることをしなければ」
それがあなたの負担になる、自己犠牲になるということはありません。
自分の観念で色付けしなければ、それは自己犠牲ではなかったのです。
逆に、あなたが心からしたくないこと、どうでもいいこと、
それを自分に強制して無理矢理するならば、それは自己犠牲です。
その状況は決して、「誰かのせい」で引き起こされているのではなく、
何らかの理由でそれを行い続けているあなたの心にこそ「元」があります。
ですからもし、自ら採用してしまった観念によって…
なんだか自分の状況を不条理に感じ、不満に思っていたり、
自分だけが損しているような気分になっている人がいらしたら、
今日の記事を読んで、もしかすると、
それは自己犠牲ではないのよー
という可能性に気づいて、すっきりされたらいいなと願っています。
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