こんばんは☆
今回は、「ぜ~んぶがあなた、でもね…」というお話です。
このブログでも、何度か「ありのまま」をテーマにお話ししたことがあります。
ありのままの自分、あるがまま、
などの言葉を使っても、その言葉の示す意味について、
思い描く内容にはズレがあることもある、と過去記事で説明しました。
それは、
「どんな状態の自分も全てありのままなのである!」と、捉える場合と、
本心と建前や、思考と行動とがかけ離れていたり、
自分の心の内側が分裂してしまっているときに、
心の奥にある元々の気持ちや状態を、「ありのままの自分」という場合と、
2通りがありますよね、ということです。
前者の考えでは、
「ぜ~んぶが私、なんだから…」
ということで、表面にあらわれている状態をそのままにすることがあります。
本当に納得していてそうした場合には、素晴らしい癒し効果もあるでしょう。
でも、同時に、このことも覚えていてください。
「ぜ~んぶが私、なんだけど…」
と、その「奥」を見る視点も、自然と必要になるのだということです。
なぜでしょうか。
どの人も、「自分でなくなっているとき」、
自己の内側でズレを感じているとき、負担がかかり、つらくなります。
湧いてくる本心に沿った人生や、「生(き)」の状態に戻そうとする、
魂の動き、「修正機能」がはたらくからです。
心の内側で本当に思っていること、感じていること、ただ湧いてくる感覚、
そういったものに自分自身がさからっているとき、人はつらいのです。
そして、自分を肯定することも難しくなります。
少なくとも、うわべの表現がどのようであれ、
「私は本当はこう思っているのだ、こう感じているのだ」
ということを、自分自身が認める(受容する)ことを最低限しなければ、
自分の中での別々な流れ、対立しあう「内側のたたかい」が生まれ、
心のバランスが崩れてしまうのです。
表面にあらわれる「表現」としての自分だけを見ているとき、
それだけであなた自身を評価しているとき、
いくら「ぜ~んぶが私なんだから!」と自分に言い聞かせ受け入れようとしても、
“見えている自分”や“現実”を好きになれないまま苦しむかもしれないし、
ときに相反して見える自分の側面同士に、困惑してしまうかもしれません。
それは、水面に出ている蓮の花だけに目を奪われていて、
水の下で伸びている茎や、地中の根っこの存在を無視するようなもの。
たとえば、
「なんだか自分が嫌いだ」という思いや、
「これじゃないんだ!」という感覚なども、
違和感によってあなたの心を内側に向け直すための、
「あなた自身の根っこ」から伝わってきているサインなのです。
自分を、そして人生を、
ただ「悲しくあきらめる」ためだけに、ありのままという考えを使わず、
あなたの可能性を「私はこうなのだから」と切り捨ててしまうために、
見たまんまを「あるがままである」と解釈して終わらないように…。
「表面からは見えづらい」根っこの自分にフォーカスをして、
外に見えているあなたの「表現」は、「表現」なのであって、
必ずしもあなたそのものではないのだと、思い出して。
根っこから絶え間なく受け取っている栄養を、どうぞダイレクトに生かして、
あなたならではの花を咲かせてください。
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