今回の話題は、こちら。
「楽しさのトーン」。
何を楽しいって思うかはさまざまです。
楽しさの押し売りは、よくない。
でも、“押し売られる”ことがあると感じているなら、
あなたは、あなた自身の「楽しさ」を認めていないのでしょう。
自分の感覚を認めていなければ、
人の基準に左右されて、それに合わせようとしたり、
そうしなくても「自分以外の基準の存在」そのものにプレッシャーを感じ続けます。
みんなはもっと自分より幸せに生きているんじゃないか。
みんなもっと、実りある人生を送っているんじゃないか。
みんなは、毎日もっと楽しいんだろうな…
などなど。
仮想の前提と比較して、あるいは「楽しそうに見える人」のイメージと比べて、
相対的に、あなたは楽しくないのだと思う。
そして、自分で「灰色」と定義した日常を、その視点でつまらなそうに見つめる。
それは土台からして幻想なのですが、そうとは気づかず、
仮想上の「みんな」と自分とを比べているとき、
あなたは目を覚まして、あなた自身に立ち返る必要があります。
そのままのモードで何かをしようとしたり選択したりすると、苦しくなります。
さて、「幸せ」の感覚もそうですが、
楽しいと感じることに関して、「高いハードル」を設けていませんか。
アドレナリンが駆け巡るような、興奮をともなうジェットコースター状態、
「頂点極めてやる!」みたいなのが、「楽しい」ということだとか…(笑)
それはそれでゲームとしてはありですが、
もし、「楽しい」と、その状態とを結び付ける定義付けをしていたら、
山と谷の繰り返しになり消耗するでしょう。
あるいは、「楽しい」と「行動」をセットにしなければいけないと信じているとか。
その「行動」も、あなたが「小さすぎる」と定義するような物事ではだめで、
おけいこや習い事をするとか…“趣味”を持つとか…
資格を取ってみるとか、起業するとか、勉強するとか…
すべてを捨てて、どこかへ移住するとか…
バックパッカーになって世界中をひとりで回らなきゃとか…
上記のどれもが、それ自体は中立で、何も悪くないですよ。
ただ、この例は、何か特定の「イメージ」を、
自分の充実や楽しさを「叶えるもの」として定義していませんか、ということです。
それくらいしなきゃだめだ!というように。
でも、そのイメージは今のあなたが本当にしたいことではなく、
実はただのイメージに過ぎないことが多い。
そして、その「イメージ」に向かって「動き出さねば!」というプレッシャーがあり、
その上それができない自分は、楽しくなれないというわけです。
「活動的」であることを美徳と考えてしまうと、
あなたの日常に湧いているかもしれない多くの楽しさを見逃します。
雨の日に雨の音を聞いているだけで、楽しいかもしれない。
くつろいでいる家族の空気を感じているだけで、楽しいかもしれない。
鼻歌を歌っているとき、すごく楽しんでいるかもしれない。
料理で何かを刻んでいるとき、何とも言えない楽しさを感じているかもしれない。
お気に入りの感触の寝具に横たわっているとき、しみじみ楽しいかもしれない。
地球の空を眺めているだけで、楽しいかもしれない。
あなたに湧き上がる「楽しさのトーン」が、
世間に提示されている「楽しさのトーン」と一緒でなくても、
それは全くかまわない。
そこに「大きい」・「小さい」も、「よりよい」・「より悪い」もない。
私はこれが楽しいんだけどなぁ。
ということが、他者からは「ふーん」で終わっても、いいのです。
それであなたの楽しさのトーンを否定する必要はない。
何かおおげさなものを目指したり、何らかの型をつかもうとしたり、
「キラキラ」と、してみせなくていいのです。
(自ずと“キラキラ”するのは内からの輝きであって、
特定の行為や状況をあらわすものではない。)
あなたの内からは常に、あなたの体験に対して、
「これいいね!」とか、「これ楽しいね!」というフィードバックが、
あなた自身の「快」という感覚を通して伝えられているわけだから。
あなたの「楽しさのトーン」を、尊重してね。
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