BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

現実が、面白い!(生きる気満々)

最近とみに感じているのが、「現実が面白い」ということ。

この場合の現実とは、今生きている日常
別の次元とか別の世界ではなくて、目の前にあるこの現実のことを指しています。

“見えない”次元、不思議な現象、神秘的な何か…
という風に「分けて」、どこかにここと違うものを求めなくても、今が面白くて。

元々私は、趣味や興味でスピリチュアル分野に入ってきたというより、当時の自分のニーズから次々と導かれるように道が現れてこの分野に入った感じだったので、スピリチュアルな世界に求める「娯楽性」のような感覚は少なかったです。

楽しみのためにあれが知りたい、これが知りたい、これができるようになりたい、占ってほしい、教えてほしい…みたいな興味は生まれず、また、答えを「今の自分と切り離した別の次元」に求めようとは思えず、もしそういうことが「スピリチュアル」という分野の全てであるなら(そういう解釈で楽しむ人たちがいること自体はOKであるにせよ、)私自身はとっくにそこから離れていたと思います。

それははっきりしていた私でしたが、この現実にフォーカスを絞り、百パーセントこの世界を楽しめていたのかどうか?というと、疑問でした。
 

ところが近頃では、「この世」が面白くてたまらない。

振り返れば昨年の後半からこの動きは明らかになっていて、もっと前から徐々に起こりつつあった変化でもあったのです。

今ではこの地球、この世界にとても興味がある上に、以前はさほど惹かれなかった政治・経済の動きなんかも楽しみで。

特に関心のある動向については、色んな角度から見てみたい気持ちで、別の国ではどう報じているだろうかと英語の記事を読んでみたりすることもしばしば。
これ、私はわざわざ英語でニュースを読むほどの積極性を持ち合わせている人間ではなかったので、自分で驚きます。以前ならありえないこと!

しかし思い起こせば、私がまだテレビを苦手と感じていなかった頃、(それはかなり昔のことで、今ではテレビなしの生活になって長い)、なんとなくかけておいても邪魔にならなかった番組は、「ワールドビジネスサテライト」でした(笑)その当時のね。
それを考えると、今と通ずる何かはその頃からあったのか。

とはいえ、政治や経済の分野に自分が参入しようとする気持ちはゼロで、そこには一切の興味がありません。
なんというか、人間の動き、世界の動向を知ること自体が興味深く、面白いのです。


昔は、人の「内面」をわかりやすく描写しフォーカスできる「小説」、あるいは映画のような芸術作品、教科でいえば「倫理」のように哲学の要素を含む内容が好きでした。
ところが、スピリチュアル分野に携わるようになって以来、だんだん「フィクション」に興味がなくなってしまい、いつのまにか「ノン・フィクション」を読む方が面白くなった、という劇的な変化を経て今があります。
もはや、フィクションの小説はどうしても退屈に感じてしまって、ほとんど読めません。映画もそのときの娯楽としては面白いこともあるのですが、そう積極的に自分から見ることはありません。

それら昔好きだったものが次々と片付いてしまい、でも「次」が見えなかった期間は、なんだかこの世における興味が何もなくなったような気がして、不思議な感じでした。

ある程度持続している関心や、芽生えている新しい興味があっても弱いもので、穏やかであるけれど特に情熱はないような、地球へ打ち込まれる自分の錨(いかり)がそう強固ではないような感覚がしたものです。いつこの世を旅立っても悔いがないような気持ちで。

ところが、今はどうでしょうか。

生きる気満々なのです(笑)

面白いこと、惹かれるもの、知りたいこと、楽しみにしていること、色々とあるからです。

ただ、それらが「執着」や「執念」のようになっているかというと、それは違います。
たとえこのように生きている矢先に自分が死ぬことがあっても、「あぁ、色んなことを楽しみに思えて幸せだったなぁ!」と思うでしょう、そんな感じ。

それは外の条件に依存するものではなく、内面が満たされていると言わざるを得ないのです。


満たされているとき、動きが「停止する」わけではなくて、生きている限り、まだ伸びようとする、どこかに向かおうとするんだなと実感しています。

人間はよくゴールを設定するけれど、生きるということは、あるゴールに辿り着いてもまた別のゴールを見つけるということです。

「完全な終着点」はなく、停止状態はない。
何かを完全と思っても、また別の完全へと動いていく。


こういった中で、あえてかつてとの「違い」に注目するとすれば、自分の願いに「人」を交えなくなったことです。

振り返ると昨年までの流れは、旧いあり方を切り離すダイナミックなプロセスだったとも言えます。

たとえば政治・経済に興味を持つと言っても、「人々がこう動きますように」とか、「世界が必ずこういう形になりますように」という思いはありません。

自分がどうしたいかははっきりしていても、人にそれを期待しません。
だからこそ、純粋に興味を持っていられるのだとも言えます。

自分自身のやりたいことにも、誰か他の人という要素を含めてはいないのです。
私ひとりでもやりたいこと、やっていきたいことのみが浮かんでいます。

それは、「何でもひとりでできると思っている」ということとは違います。
ひとりで生きていると思っていることとも、違います。

誰かがapprove(賛成・承認)するか、しないかと、自分がしたいこととは一切関係がないということです。


人の創造性とは、そういうものではないでしょうか。
何千種、何万種の植物を調べた人は、誰かに認められたくてそれをしたでしょうか。
昆虫が好きで好きで生態を研究している人は、あるとき虫たちに惹かれて、観察するのが面白かったのではないでしょうか。

結果として、「業績重視」に逸れてしまうことは、人間の世界で起こりがちではあるけれど、発端は、自分自身の「理由なき創造性」に引っ張られてのこと。

場合によっては、最初から目に見えて「他者への貢献」と「自分の興味」とがマッチしていることもあるけれど、たとえ「人に貢献できている行いのはず」でも、あなたの創造性に沿っていないことをしていたら、心は満たされていない自分に気づくかもしれません。

私たちひとりひとりに、自分なりの創造性の世界が割り振られています。
それこそが「天の配剤」とも呼べて、自身の創造性とともに流れていくことが、かくも大切なのです。

あなた自身の内に沿っていてもなお、新しい何かに向かったり、変化を伴うときには、恐れを「痛み」のように捉えてしまうことがありますが、そう感じることは必須ではありません。

未知から発生する恐れを、武者ぶるいのように、心高鳴るものとして受け取ってみましょう!


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