BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

暇を持とう~あなたがあなたと向き合う時間~

現代社会の一部では、「暇であること」を恥じたり避けたがったりする傾向が見られます。

「忙しい」ということが、充実や、やることがあるということ、イコール「必要とされていること」という方程式に繋げて考えられているのでしょうか。

今回はそれについて掘り下げていきます。

連休の過ごし方に葛藤を持つ?

たとえば、この間ゴールデンウィークがありましたよね。

私は長年カレンダー通りに休日を取る生活はしていませんから、個人的に日常と異なることは何もないのですが、仕事がお休みになる人の中には、ゴールデンウィークの予定がないことを「恥じるとまではいかなくとも、これでいいのかと自問する」人もいるようです。

ずっと家にいるだけのお休みで、いいのかな~と考えてしまう。
かといって、どこかに出かけたいわけでもない。

そんなご経験がある人、いませんか。

私自身はそのように考えることはありませんが、話に聞くことがあるので例に挙げました。

この場合、「本心では特に出かけたくもない、予定を入れたいわけじゃない」という部分と、「連休なのに家にいることは、【もったいない・正しい過ごし方じゃない・充実していない】のでは」などの「~べき」の部分とが対立しています。【】内の該当する思いはひとりひとり異なるでしょうけれども。

連休なのにうんぬんの部分は、言うまでもなく、その人が「後から」周囲や世間的な何かから身に付けた思いであって、「自分がどうしたいか」の本心だけに従っていればシンプルです。 

はっきり言ってしまえば、連休の過ごし方自体はどうだっていいですよね。
好きにしたらいいというだけで、マニュアルが存在するわけではないし、仮にそのようなものがあったとしても守る動機はなんでしょうか。

人それぞれ、そのときどきの状況やコンディションや都合や……で、どうしたいかは違ってきます。
「連休でどこも混んでいるのに、わざわざ出かけるなんて」という考えも一定の枠にはまっているし、「連休なんだから何かしなきゃね」という考えも同様で、共通の「こうあるべき」や手本を作る必要がないんです。

ただ単に、その都度あなた自身のエネルギーに素直になることを、自分で肯定していれば葛藤は生まれません。

あるいは、連休のような機会があると、「お休みなのに何もしなかったー!」と、家にいたらいたで「こういうこと(普段できない雑用など)をするべきだった」 と悔いる人もいますが、そのとき自分がやりたくなかったという事実よりも、ほかに何を重んじているのか、そのことに気づいてください。自分が何に囚われているかがわかるからです。

心からやりたいと思ったことなら、あなたはきっとやっているでしょう。
自分の内から湧くタイミングを、信頼していますか?

暇はあなたを、霊的な視点に向かわせる機会

冒頭の出だしに戻りますが、現代社会ではまだまだ、「何もしないこと」への価値が軽んじられている傾向にあります。
これは文化によっても異なっていて、今でも何もしない時間を尊重する傾向にある文化もありますね。
ゆっくり行うこと、じっくり考えること、それこそを重んじる文化もあるということです。

現代の日本はというと、そうとは言えません。
どちらが「より良い」という問題ではありませんが、現代の日本では速く、効率よく、そして勤勉に、という部分が評価されがちだということは否めないでしょう。

自覚しないまま何となくではあっても、その「集合的合意」を自分の中に取り入れていると、「暇なことに罪悪感」を持つことは不思議ではありません。

でもね、よく考えてみてください。

「何もしない」と言ったって、私たちは本当に何もしていないことはできないのです。

呼吸する。考える。何かを見る。
意識の内側では常時、様々な活動が起こっています。

眠っているときですら、あなたは活動しているんですよ。

そうしたことに気づく暇もなく、「やらなくてはならないこと」を行う。
予定を入れる。ルーティーンをこなす。暇を埋める!

余暇ができたらできたで、何かしなくちゃと思う。さほどそうしたいときでなくても、誰かと過ごす。
無駄な過ごし方をしないように、心の中で確かめて、気をつけながら……。

もしもそんな風にしていると、あなたが自己の霊的(スピリチュアル)な側面に気づく機会は狭められていきます。

もちろん一概にそうとも言えず、物理的に忙しくても霊的な認識を発達させている人もいますが、多くの場合、忙しさはあなた自身から目を逸らさせます。

なんでかわかりますか。

あなたが「義務をこなしている」という安心感があるとき、それを盾にして、自分自身がどう感じているか、どう思っているかに目を向けることを怠りがちだからです。

そして、問題が生じて初めて立ち止まり、自分の内側について考えます。

哲学者の価値~あなたの中の哲学者の側面、使っていますか~

哲学者だったり、霊的な指導者だったりの、価値が重んじられる時代もありました。

特に霊的な指導者については、現代のような冠婚葬祭といった場合の役割ではなくて、実際的に、社会に不可欠な存在として、人生の霊的な側面について教える立場にあったこともあるのです。

現代の社会がそのような役割を軽視しようとも、私たちひとりひとりの中にはそうした側面が生きており、個人差はあれど、変わらずに人生に必須の要素です。

あなたは、あなたの中の哲学者の側面を使っていますか。

経済活動の支配下にある思考

そもそも「お金を稼ぐこと」、「経済活動」に結び付く行動にのみ、過大な価値を置くという発想が、現代では蔓延しています。

忙しいことが良いことという考えの中にも、「繁盛している」、「忙しくなるほど沢山の仕事がある」という解釈が含まれてくるでしょう。

ひいては、それが人生の意義の中心であるかのように受け止められることもあるのです。

そこにフォーカスした生き方を、ラップのかけ声のように、
make money money, make money money money!
と威勢よく楽しんでいられればいいですが、その楽しみ方が勢いに任せた「ハイ」な状態で、心が置き去りになってはいないかということに留意したいものです。

ワーキング・ハイ。
忙しい活動による、ハイ。 
物理的に結果を残すことの、ハイ。

こなす、こなす、こなす……という充実感。
あまり難しいことをごちゃごちゃ考える余裕は生まれなくなるかもしれません。

だからあえて書いておきます。

考える行為が制限されたり、無駄なものと見なされたりすることは、危険ですらあります。
人間は、「行動するだけ」のロボットではありません。

行動の準備段階として考えがあり、「形」になる前のものとして意識活動があります。
考えることと行動は分離していません。本来ひとつのものです。

私自身もかけられた経験のある言葉で、「破壊的だなー」と思うものとして、

「暇だから、そんなに考えごとをするんだよ!」
「もっと忙しくしてれば、悩まないよ!」

という発想があります。

もちろん、考えることと行動とのバランスは大切です。
考えてばかりでまったく動かないというのでは、エネルギーが滞ってしまうでしょう。

けれども、自分がどうしたいか、何を感じているのか、内側の動きについての自覚を持たないまま、義務感から、もしくは葛藤を忘れるために闇雲に動くことは、結局、後から「その分のツケ」を払うことになるのです。

なぜそんなに、考えることを避けるのか。
自分自身の内側で起きていることを、明瞭に理解することから逃げるのか。

すべては、ケースバイケースです。
じっとひとりで考えているよりも、忙しく活動していた方が救われた、ということもときにはあるでしょう。

正解はひとつではありません。
けれども、「いやな気分や恐れから逃れるために何かをする」とき、そのいやな気分や恐れは、蓋をされているだけでそこにあることを覚えておいてください。

暇と対峙することが怖いとき、あなたの中に、何か見たくないものがあるのかもしれません。

あなたが怖いと思っていることは、本当は怖くないと知るためにあるんだよ

この間の★明晰夢のオンライン講座★でも近いご質問がありましたが、夢の話題が出るとよく尋ねられるトピックのひとつが、「怖い夢」についてです。

また、個人セッションでお話しすると、「夢が怖いから見たくない」という方もときどきいらっしゃいます。

そのとき本当に恐れているのは怖い夢を見ることではなく、そこに表現されているあなた自身の側面に向き合うことであるということを思い出してください。

あなたの中で蓋をされている恐れは、夢の中で、ふとしたタイミングで提示されます。
現実世界では忘れて過ごせるかもしれませんが、それはあなたの中で、待っているのです。

何を待っているか?
あなたに認識され、恐れられなくなることをです。

そして、起きている間に自分と向き合うようにすれば、眠っている間に見る夢にもその変化が反映されるんですよ。

自身の土台を忘れ続けようという、無理な試み

今回語ってきた、現代に見られる傾向である、
暇を嫌がることにも、夢を軽んじることにも、共通している根本原因があります。

霊的な側面を「ないことにしたい」のです。否定し、忘れていたいのです。
今フォーカスしている「この世(物質的世界)」を「すべてである」と思い込みたい
のです。

それは真実ではないから、あなたの内側は、呼びかけ続けます。
あなたという存在の全体を思い出すために。

それに応える気持ちがあるのでしたら、

暇を持とう。
物理的には何もないように見えるところを、眺める余裕を持とう。

「余白」に見えるものを避けることはやめるのです。

もしも、人生のほんのスパイスとしてしか「霊的」な話を必要としていないのなら、あなたの能力のほとんどを眠ったままに使用するということです。

あなたがあなたと向き合う時間は、生活の様々な義務をこなすのと同様、ときにはそれ以上に価値を置いていいものなのですよ。


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